北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
筆者:新舛 育雄
第4回 シアトルで活躍した人達と、領事への期待
前回は1917年以降のシアトルでの日本人ビジネスの発展に関する記事を紹介したが、今回はシアトルで活躍した人達と、領事に関する記事について紹介したい。
1919年「一日一人 人いろいろ」
1919年1月から2月に渡り「一日一人 人いろいろ」と題して発展したシアトルでいろいろな分野で活躍する人達の紹介が、毎日一人ずつ掲載されていた。各氏の功績、隠れた一面などがユーモラスに書かれている。この中からいくつかの記事を取りあげたい。
▼「一日一人人いろいろ」に掲載された人物一覧『北米時事』1919年1月1日~2月26
回 | 掲載日 | 氏名 | 職種 | 仕事・役職 |
1 | 1/1/1919 | 松永直吉 | 官庁 | シアトル帝国領事館領事 |
2 | 1/4/1919 | 田村詮 | 貿易 | 日米仲買商会 |
3 | 1/6/1919 | 東 英二 | 貿易 | 輸入業者, 蜜飴輸入、織物取引 |
4 | 1/7/1919 | 指原延治 | 貿易 | 貿易会社 |
5 | 1/8/1919 | 平出亀太郎 | 商店 | 平出商店 |
6 | 1/9/1919 | 勝屋利秋 | 商店 | 鈴木商店 |
7 | 1/10/1919 | 土倉四郎,工藤今次郎 | 銀行 | 横浜正金銀行シアトル支店長 |
8 | 1/11/1919 | 川上保太郎 | 会社 | テーブルソース会社, バタの売り出し |
9 | 1/13/1919 | 蔦川影三 | 商社 | 日米仲買商会 |
10 | 1/14/1919 | 牧野千里 | 商社 | 内田商事会社シアトル出張所主任 |
11 | 1/15/1919 | 奥田平次 | 運送業 | 日本人館社長, 公共の世話 |
20 | 1/29/1919 | 吉村正寛 | 医師 | 当野倶楽部長 |
21 | 1/30/1919 | 伊東忠三郎 | 理髪業 | 理髪業組合長 北米日会議長 |
22 | 1/31/1919 | 町田路男 | 日本郵船 | 鹿島丸船長 |
23 | 2/1/1919 | 小池張造 | 官庁 | 鉱山王久原の顧問 総領事 |
23 | 2/2/1919 | 柚木保一 | グロサー | グロサー(食料・雑貨販売) |
24 | 2/4/1919 | 名村豊太郎 | 銀行 | 住友銀行シアトル支店支配人 |
25 | 2/10/1919 | オル・ハンソン | 官庁 | シアトル市長、スカンジナビア人 |
26 | 2/11/1919 | 築野豊次郎 | 洋食業 | 日本人洋食店組合長 |
28 | 2/14/1919 | 宮川万平 | ホテル業 | シアトルホテル組合長 |
29 | 2/15/1919 | 岡島金彌 | 県人会 | 鹿児島県人会長、日本人会役員 |
30 | 2/18/1919 | 高畠虎太郎 | 学校経営 | 福岡県人会長、国語学校校長 |
31 | 2/20/1919 | 柴垣清朗 | 日本人会 | 北米日本人会理事 |
32 | 2/22/1919 | 岩村次郎 | 県人会 | 広島県人会長 |
33 | 2/26/1919 | 石田礼助 | 商社 | 三井物産シアトル出張所主任 |
第5回1月8日号 平出亀太郎(平出商店)
「平出家に貰われて、横浜で大きくなり、ショートパンツで米国に来てから、ニューヨークの商業学校で学んだ。(中略)店も次第に広げられ、今日の繁昌は努力の結果だろう。みかけはボッチャンのようだが、焼いても煮ても食へないスマートな男だそうな」
この記事からすると、平出亀太郎はなかなかのやり手で、マネージメント能力の優れた人物と推察される。亀太郎は日本雑貨食料品を扱う平出商店を創業した倉之助(1892年渡米)の後をついだ人物である。亀太郎は、有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』によると1924年シアトルで有馬純義・環の結婚媒酌人をつとめた。また、1926年から北米日本人会長として活躍した。
第7回1月10日号 土倉四郎(横浜正金銀行シアトル新支店長)
「シアトルの古参、工藤今次郎がニューヨークへ栄転の後を受けて、サンフランシスコ支店副支配人から北上してきた。サンフランシスコ支店長の下働きから、押しも押されもせぬ出店の旦那となった。先任工藤がとにかく苦心経営して固めた正金の地盤をこれから如何に拡充していくかを一般が嘱目している。生まれは千本桜の道行きでご承知の大和の吉野豪農、土倉の四番息子。(中略)山持ちでありながら自由党に政費を出した亡父の血を受継いだ彼は何処やら国司の面影がある。算盤を持たなかったら、あるいは政治家になったかもしれぬ」
横浜正金銀行は前回お伝えしたように、日本からの銀行として1917年にシアトルへ進出した。その初代支店長が工藤今次郎で、その後を継いだのが土倉四郎だった。
1918年12月2日号に、古屋政次郎(古屋商店、日本商業銀行の創立者)が主催し、工藤氏と土倉氏の歓送迎会を「まねき」で行ったことが記事になっている。松永領事他多くの来賓が出席したようで、北米時事社から宮崎(1919年1月1日号の北米時事社社員一覧より宮崎徳之助と推測)も出席した。
工藤今次郎については、1918年1月1日号に横浜正金銀行支店長として自身の投稿があった。
「シアトルに横浜正金銀行出張所を設置したとき、主任として赴任したが予想以上の外国為替取引に好成績を上げることができた。(中略)その取引の主なる人は自分達がシアトルでは知らない人達で、日本の有名な大会社三井物産、鈴木商店等もあるが、多くは新進の商人によって、大取引がされている事実については感慨深いものがあった。(中略)今度ご当地に赴任して日本人社会の大発展、総ての事業の進歩、基礎の確立、社会の秩序の整頓、見聞ことごとく意想外で、その進歩は著しいのに驚嘆した」
工藤今次郎はシアトル外国為替銀行の元祖として、貿易業の発展に貢献した。英語堪能で、多くのシアトル在留日本人に英語を教えたようである。
第8回1月11日号 川上保太郎(アメリカンテーブルソース会社社長)
「テーブルソース会社ではランチ用の一寸おいしいバターを売り出している。シアトルに来て以来、盛んに活動している商才もあり、発明に没頭する根気もある。器用貧乏でまだ成功はしていないが、きっと成功する人物だと信じる」
1918年1月1日号にも、川上保太郎は写真つきで掲載されている。
「川上保太郎は横浜商業学校の出身にして1893年渡米、直ちにアラスカ探検し白人の妨害に遇うも屈せず、同地ジューノウに洋食店又雑貨店を開いて成功した。アメリカ滞在中、百方苦心して白人向ソースを発明し、之を米国人に嗜好させ、我国益となる事を信じ、その経営する事業を犠牲にして目下、その製造販売に熱中し着々成功しつつあるという」
通常アメリカに渡った日本人は、すぐお金になるビジネスに励んだが、川上保太郎は自身のビジネスを捨てて、新しい製品を開発するというチャレンジ精神には驚嘆させられる。
第24回2月4日号 名村豊太郎(住友銀行シアトル支店支配人)
「神戸高商出身で至極温厚な圭角のない男。住友の家風だろうが、前垂れ掛け式の態度は少し正金とは行き方が違う。万事内気な手堅いやり方は金庫の番人として適材であろう」
前回、お伝えしたように住友銀行は1918年にシアトルに進出し、在留日本人の預金や郷里送金などの業務を行い、日本人社会を支えた。
第25回2月10日号 オル・ハンソン(シアトル市長)
「靴磨きから苦学して仕上げた男で政治は好きだが、金を作らねば何事もできないと土地家屋の売買業を創め、新聞広告を利用して大いに儲けた。スカンジナビア人で同国人間にはなかなか信用があり、市会議員から州下院議員にキング郡から選出され、遂にギル前市長を破り現職に就いた」
オル・ハンソンシアトル市長に関して次の二つの記事があった。1918年2月20日号に、 「シアトル市長選挙、ハンソン氏大多数投票得る」の表題で「ハンソン氏は投票者数の40%にあたる票を獲得し、現市長を破り市長となった」との選挙結果を伝える記事。1918年8月16日号には、第1面トップの社論として「労働市長」との記事が掲載された。
「人口45万、シアトル市長オル・ハンソン氏、 エリクソン造船所の一労働員となり、執務の後、午後4時より労働服を着て、綿製帽をかぶり、額に汗をかいて、夜中の12時までの8時間労働をしている。日本人の眼から見れば、堂々たる市長が一造船職工となるのは威厳を損すると見る。(中略)米国人は個人主義的と同時に奉仕の精神旺盛、日本人も学ぶべき教訓となる」
このスカンジナビア出身の市長は、日本人と同じように一からたたき上げの苦労人で大変な努力家であることがわかる。当時排日運動があったにも関わらず、市長がプライドを捨てて働く姿を学ぼうとする、日米友好ムードを感じる記事だ。
第26回2月11日号 築野豊次郎(日本人洋食店組合長)
「同情ストライキの渦中に巻き込まれた日本人洋食店組合長たる彼は山梨県人で死んだ又二郎の弟、日米興業社の市蔵の兄貴である。昨年故郷の兄嫁が死んだので、25年ぶりに日本の土を踏んだシアトルの古老株である。ショートパンツで渡米して此の程ニューヨークに行った工藤今次郎(前述)に英語を教わったというからかなり骨董品だ。多年レストランを経営して同県中ではやはり立て物で山梨モンキーに似合わぬ角のとれた丸い男だ」
「同情ストライキ」とは、1919年の2月初めにおこったシアトルでの白人側の工場総ストライキで、日本人洋食店組合は白人社会との協調を考え、閉鎖することを即座に決定した。(同年2月5日号に掲載)
兄の築野又二郎は東洋貿易会社の社長として活躍した人物。弟の築野豊次郎は1896年に渡米し、レストランをいくつか作った。又初代山梨県人会長を務めた。
今回掲載された他の各氏についても各界を代表する人物が多く掲載されており、今後の連載の中にて取り上げたい。
領事への期待
シアトル在留日本人の支えとなったのが、領事の存在だった。第1回で1901年にシアトルに領事館が設置されたことをお伝えしたが、それ以降1940年までに13人の領事(領事代理等除く)が日本政府からシアトルに派遣された。シアトル領事館はワシントン州、モンタナ州、アラスカ、アイダホ州の一部を管轄していた。
前項の「一日一人人いろいろ」第1回、1919年1月1日号にて高橋清一領事の後任として、1917年から領事を務めた松永直吉氏について掲載されている。
「熱心で親切で、真二千石(しんにせんせき)を得たとなかなか評判がよいが、忌憚なく云えば、高橋領事が味噌をつけた後で誰が来ても持てはやされるとはいえ、彼は決して無能ではない。熱心に事務を執って、人に城府(じょうふ)を設けない。年は若いが有能である。佐賀県人通有性のせせこましい処がなく、落ち着いている。出世する人だろう」
松永領事は、在留民の福利増進、日米親善に努め、シアトル日系移民社会の発展を支えた。1920年3月に後任の領事、廣田守信氏にバトンを渡した。(1920年2月18日、24日号掲載)
1937年12月3 日号で岡本一策領事が2年8カ月の赴任を終えシンガポールへ総領事として栄転する記事が掲載された。岡本領事は日支事変による米人の対日感情悪化などの在留日本人にとって大きな問題の解決に尽力した。
12月8 日号では岡本領事の送別会が盛大に行われた記事が掲載された。そして新しい領事として佐藤由己氏が赴任した。
1938年3月3日号で 『北米時事』社長の有馬純義がペンネーム「花園一郎」として毎日掲載している「北米春秋」に佐藤新領事への期待を「佐藤領事を迎ふ」と題して次のように語った。
「領事と在留民との関係は一種独特のものである。それは故国に於ける官吏と一般国民との関係とは違う。領事は政府を代表する官吏ではあるが、その海外の任地における立場は単に官吏というのではなく在留民の指導者たるは勿論、その擁護者、その助言者更に海外に於ける日本人としての兄弟でもあるのだ。言葉を変えて言えば、在留同胞家族の戸主である。(中略)在留民としては、領事並びに領事館との協力を求める以外に何ら求めるところはない。しかも佐藤領事に於いては、多年の経験による練達の士である。(中略)一つ注文を取り次ぐならば、領事ができるだけ広くその管内の同胞の事情を親しく視察されんことである。これは地方同胞の常に新任領事に対する希望としてなかなか実現されざるところである」
シアトルにいる日本人がいかに領事への期待が大きいかが伺える一文だ。同年12月3日号をみるとシアトル領事館がセントラルビル移転後の30年のお祝いの際、佐藤領事は次のように語った。
「僕は管内を殆ど視察したが、対日感情は非常によいと思った。在米同胞が常に米人と親交を結んでいる結果だろう」
佐藤領事はもしかしてこの「北米春秋」を読んだのだろうか?その期待に応えるように、就任後、直ちに管内を切れ目なく視察し、多くの在留日本人と接していた。佐藤領事は在留日本人のために日米親善に努めた最後の領事だった。
次回はシアトルの急激な発展を支えたシアトル航路について紹介したい。
参考文献
①加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年。②竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年。③『伊藤一男『北米百年桜』日貿出版、1969年。
筆者紹介
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。
『北米時事』について
鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。