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アイヌ文化とジュエリー〜地球からの贈りもの、宝石物語

平和や民主主義に慣れ過ぎてしまい、これが先人たちの多くの犠牲があってこそだという自覚が薄れていたかもしれない。昨今のウクライナ情勢は、距離が遠くとも対岸の火事ではない。

1月ほど前に、ジュエリーブランド「ヴァンクリーフアーペル」が東京で開催した「メンズ・リング・イヴ・ガストゥ コレクション」という催しものを訪れてきた。そこで見つけたパネルや冊子を読んで、なぜ日本の歴史においてジュエリー文化が発展しなかったかという、私がいつも抱いている疑問を改めて考えてみた。

大まかに言うと、飛鳥時代の終わりから江戸時代後期ぐらいまで、日本文化の中でジュエリーがほぼ空白な時代となる。かんざしや帯留めなど、直接に肌に触れない装飾品はあるが、直接身に着ける指輪、耳飾り、ネックレスなどは発達しなかった。千年近くの空白は、世界でも珍しいという事が冊子に書いてあった。

日本でも、縄文時代から飛鳥時代ぐらいまでの出土品には、ペンダントや指輪などのジュエリーが発掘される。歴史の教科書で見た勾玉や青銅製の指輪などが代表的。新沢千塚古墳の126号墳で発掘された金製の指輪などは、ヨーロッパ中世の様な趣である。しかし飛鳥時代・古墳時代ぐらいを最後に、ジュエリー文化がまるで消えてしまった。

冊子には、ジュエリー文化が消えた背景として「仏教の普及が影響しているかも」「寺で手を清める時に指輪が邪魔になるため、廃れたのでは」「603年の冠位十二階も影響しているかも」などといった趣旨の記述があった。しかし、世界の仏教文化や仏教が栄えた他の国のことを考えると、これだけでは納得できなかった。金製の指輪は古墳出土品としてあるが、人型埴輪には他の装飾品は色々ついているが指輪を付けたものがないそうだ。指輪は細かいから埴輪には省いたのではという見解が書かれていたが、他の細かい装飾品がついているなら、指の周りにぐるっと一周細い粘土を付けるぐらい何でも無いのではないか?という疑問が残る。

そんなことを考えていた時に、ふと見たアニメに目が釘付けになった。それは日露戦争後の日本が舞台で、北海道アイヌの母と、ポーランドと樺太アイヌのミックスの父を持つ少女がヒロインの話。

アイヌの衣食住の描写が作品全体の背景に色濃く出ている。そしてアイヌの人々は老若男女、ピアスやネックレスをしているのだ。日本本土の歴史からは消えてしまったジュエリー文化が、アイヌでは途絶えることなく引き継がれていた。

アイヌ民族博物館などのサイトをいくつか見たりすると、タマサイというガラス玉のネックレスとニンカリという耳飾りの説明が出てくる。タマサイはガラス玉のネックレスで、真鍮製の飾りがついているものはシトキと呼ばれる。ガラス玉は交易で得たものとされている。耳飾りは細い真鍮を円形に曲げたもので、男女共身に着けたそうだ。

これがきっかけで、アイヌ民族の歴史を少し調べてみた。アイヌ民族が日本本土からどのような扱いを受けてきたかを少し知ることができた。「アイヌ文化」として形成・認識されたのは、本土の鎌倉時代とされる。日本の様々な地域と対等に交易してきたアイヌの人々。「アイヌの事はアイヌ次第」と記されてある北海道開拓記念館にある徳川家康の黒印状も存在する。しかし、明治2年に開拓使が設置されたことにより、育んできた文化が否定廃止され、領土を奪われ、第二次大戦後しばらく経つまでずっと否定されてきた。

北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌ。明治政府が先住民である千島アイヌの人を無視し、勝手に千島列島におけるロシアとの国境を決めたのだ。

アイヌ民族は明治時代に勝手に日本の一部とされ、耳輪や入れ墨を含む独自の文化的な習慣も禁止された。しかし、日本のジュエリー空白期間に渡って、縄文・飛鳥で培われた古代ジュエリー文化がアイヌ民族によって温存されて、その後も大陸からの影響も受けて独自に発展してきたという考え方もできるのかもしれない。

文化とは?国とは?過ちを繰り返さないために、一人一人が自らもっと学ぶ姿勢を持たなければならないと考えるきっかけになった。

80年代のアメリカに憧れを抱き、18歳で渡米。読んだエッセイに感銘を受け、宝石鑑定士の資格を取得。訳あって帰国し、現在は宝石(鉱物)の知識を生かし半導体や燃料電池などの翻訳・通訳を生業としている。