初期『北米報知』から見る
シアトル日系人の歴史
By 新舛育雄
北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
第2回 シアトル日系人ビジネスの再興
前回は『北米報知』の創刊時の様子についてお伝えしたが、今回はシアトル日系人ビジネスの再興についての記事を紹介したい。日米戦争によりシアトル日系人は長年住み慣れた日本町からの立退きを余技なくされ、収容所へ送りこまれた。終戦後、アメリカ各地からシアトルへ帰還した日系人の働きにより日本町が再生する姿を記した記事を取り上げる。
シアトルへ帰還する多くの日系人
「東部から帰還する日系人 」1946年10月9日号
「最近内務省より発表した転住報告によると、各センターにゐた約半数の日系人は東部中西部の諸州に転住し、イリノイ州だけでも15000名以上の転住者を収容してゐた。其後日系人たちは住み慣れた西部沿岸地方が恋しいと見え、続々と帰還しつゝあるから、将来は太平洋沿岸地方に約半数の日系人が居住する事となるであらうと思はれるが、コロラド州へは約5000名の転住者があったと報告されてゐる。何れにせよ沿岸は二世にとっては故郷であり、第一世には第二の故郷であるところから沿岸地方恋しいとの声は東部地方転住者にとっては相当に根強く植へ付けられてゐるやうだ。昨年以来増加したシアトルの同胞は実に驚くほどで現在シアトルに在留する同胞の数は5000名を超過してゐることゝ思はれるが約一ケ月前、シアトルを訪問された内務省官吏 カルム氏は短日月に復興した同胞社会の状態を見て驚嘆しておられたとのことである」
文献によると、太平洋沿岸を中心に居住していた約12万人の日系人は日米戦争により10ヵ所の収容所へ強制的に送りこまれた。終戦後アメリカ各地に転住していた多くの日系人が続々と太平洋沿岸に帰還していった。
日系人ビジネスの再興
「ビジネス街道を往く」1946年6月12日号
「ジャクソン街に立つと初夏の陽が、ジャクソンビルに微笑みかけて居る。その昔、仰ぎ見たことのない金文字が、づらりと並んで居る。渡辺事務所、福原ヘーゲン国際事務所、小池医院、志萓 医院、鶴之沢医院、福田、光森歯科医院、坂原事務所、高木法律事務所、平原、平林事務所―等々々みんな新しい金文字ばかりである。曽 て、こんなにも金文字ばかり並べられた事があるだろうか。ジャクソンビルがオフィス・ビルとして再建の尖端 を切った事を物語って居るのである。(中略)ジャクソン街をブラリブラリ上って行くと高野写真館や、疋田 家具商会、南釣道具店、レ二ヤミートなどがある。高野さんで写真を撮って、疋田さんでファニチュア(家具)を買へば、翌日からスヰート・ホームである。(中略)十二街を出て、北行すると裏川君のシャンティ・インがある。アイスクリームでも食べて、お隣を覗けば、チェリーランド花屋である。御主人、相変らず元気で、大活動、『早く新聞を出しなョ』と激励して呉れる。お隣の薬屋さんを覗けば、近田君が調剤にいそがしい。十四街まで足をのばすと木原さんの魚屋さん―相変らず物凄い魚河岸 景気だ。ぐずぐずしないで早く買っておかへり―と言はれ相だ」
この記事は再興を遂げた日本町の活気に満ちた光景が目に浮かぶ。
「頭が下る 籾井一剣」1946年10月30日号
シアトル人の経済的基礎と言ふものは、ホテル業を根幹として不動のものがあったのである。平常羊の如く質直なれども、一旦事に当っては猪の如く勇敢に突進するシアトル同胞の投資力には、今更ながら頭が下るものがある。将来この心意気に燃えて、戦後の新時代に堂々と打って出たシアトル同胞の将来こそ、今にして陽春3月の歓喜を覚ゆるものがある。然もその同胞伸展の有力なる道案内を勤められる貴兄の『北米報知』こそ、時代同胞と共に進みつゝ大いなる実蹟を挙げられるであらう事を希み且つ祈る次第である」
この投稿はロサンゼルスに住む籾井 一剣氏から北米報知社の生駒社長宛に送られたもので、ホテル業など、シアトル在住日系人の事業への精力的な投資力を絶賛している。
今後の経済的発展についての意見
「同胞の経済的発展に就いて 古老の意見を叩く」1947年6月4日号
「キャンプに居た時、シアトル地方は非常に人気が悪くて商売などはやって行けぬと聞いて大ひに心を痛め、内心ビクビクで帰って来たが、人気も風評のやうに悪くはないが、日本人が商売をやっても買ひに来てくれるお客様があるかと随分苦しんだものだが、意外にも人気は上々の方で、景気はよく金払いはよしと云ふ調子で、まァ相当の繁昌を見せてゐる。(中略)日本人が沿岸に帰って来た時は戦争景気が絶頂に達したときですべての人は多忙で商売人等は利益を満喫してゐたときであった。今日のように景気が下向きになって来ると又そろそろ自分の利益から打算して文句をつけたがる。そこで新しく開業する人はこの点に十分注意して、最初は余り人目につかぬ様、同業者から色々な文句を云はれないよう注意が肝要だと思はれる。(中略)幸ひにも同胞の経済的底力が予想外にしっかりしてゐた為めか、シアトル同胞の生活状態は概して良好な状態に置かれてゐることは、何よりも喜ばしいことである。この上は我々同胞が常に心を一にして共存共栄といふことを念頭に置て、抜くことの出来ない経済的基盤をつくることである。常に米国経済の動静に注意して子孫に残る事業をやることである。時代は一時腰掛的な移民の時代は過ぎ去って、本格的に事業をやる時代となってきて居る」
この一世の意見は今後米国に腰を据え、長期ビジョンに基づきビジネスを遂行していくことが重要だと主張している。
「四度の春を迎へて、坂口 豊」1949年1月1日号
「我等がシアトルに帰還して早くも四度の春を迎えまた今更ながら光陰は矢の如しの感が深い。帰還当時のあのメーン街通りの乱暴な状態を見た時、今日の状態を見るのを誰が想像する事が出来たであろうか。流石 は日本人である。あのひどい状態から今日の美化されたメーン街を造り、ジャクソン街を造った。最初は日本人等には一切店は貸さぬ等々高言を吐いて居た連中も日本人に貸せば見違える程立派になるので今度は日本人でなければならぬと云ふ態度に変わって黒人共を追いだしに掛ると云ふ有様、彼等は実に現金なものである。或時ホテルは一切日本人には売らぬ等と吐かして居たが、利益の為めには申合せ等は何の役にも立たぬ、売るならば日本人に限ると来て、終戦後日本人のホテル、アパートメント方面の進出は遂に驚く程である。(中略)我が一世諸君も十分に働いた。もうそろそろ老を養ふて宜い時代となった。自分の事業を子供の二世に譲っても宜い時代となった。二世に事業を継続させる事も容易な事ではないから、甘く上手に商売に興味を覚えさせて行く事が肝要である」
投稿者の坂口 豊氏はこれまでの一世の活躍を讃え、二世に継承していくことの重要性を主張している。
日系人ビジネスの開業
日系人ビジネスの開業の様子を書いた記事がさまざまな分野で掲載された。
▪️時計店
「中村さんが自宅で時計修繕」1946年6月12日号
「以前にジャクソン街で中村時計商会を経営されていた中村政𠮷氏は去る三月末日シカゴより帰沙したが、目下自宅に於て時計修繕の需 めに応じて居るが、好適の場所が見つかり次第、時計店を開業されると」
*中村時計店は戦前繁栄したが戦後も存続、発展していった。
*筆者旧連載「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」第3回「シアトルの発展と日本町の繁栄」参照
▪️家具店
「疋田商会大拡張、 8月1日より開業」 1946年7月31日号
「本年1月以来南第八街ウエスタンホテル下にて開業中なりし疋田家具商会は今回ジャクソン街タコマホテル下に移転することゝなり目下準備中なるが来る8月1日より開業、層一層の大勉強を以て顧客の求めに応ずる由。尚、同店では日本人部の代理店として、ラジオ、冷蔵庫、洗濯機等の注文に応ずる」
▪️食料品店
「天下一品、大好評のみそ、そば」 1946年8月14日号
「ジャクソン街700番ノースウエスト製造会社は事務的な野村新蔵さんと、おとなしくて職務に忠実な串友次郎さんの共同経営で、醤油、味噌、麺、そば、うどんの製造に大多忙を極めてゐるが、醤油は既に定評があるので売れ行きは頗るよく殊にみそ、うどん、そばは天下一品、是非一度は試食されるやう皆さんにお勧めする」
「開業広告、宇和島屋商店」1946年11月27日号
「私儀戦前タコマ市に於て『宇和島屋』を経営中は皆々様より一方ならぬ御愛顧を賜り有難く御礼申し上げます。今回シアトル市メーン街422番に於て蒲鉾、さつまあげ製造並びに魚類各種其他日米食料品一切を取揃え再開業致しましたから何卒倍旧の御引立に預り度偏 に御願申上げます。1946年11月 宇和島屋商店、森口富士松」
▪️釣り道具店
「釣道具店開業」 1947年2月5日号
「岩田福蔵、河原ヘッボー、ラレフ・マッキー3氏の共同経営にてシアトル釣道具店なる名称の下に第二街608にて釣道具類一切、ラジオ、モーター等の販売を開始した」
▪花屋
「花屋開業」1947年2月5日号
「戦前、ユナイテッド、ホールセール花店を経営していた新保八郎氏は今回東バイン街617にて アケシア花店を開業、祝儀、葬儀用は勿論花なら何でも特別大勉強を以て市内からの注文は迅速に配達する由」
1950年11月22日号によるとアケシア花店は業務を拡張しジャクソン街123に同名の店舗を開業した。
▪医院
「中村歯科医院再開業」 1949年6月23日号
「1944年ミニドカよりスポーケン市に転住同市にて開院中なりし中村デンチストは今回シアトルへ帰還、ジャクソン街1627にて 最新式歯科医院を造作中であったが、このほど落成愈々明24日より開院、親切丁寧を旨として歯科治療の求めに応ずる由」
▪薬店
「薬店開業」1949年8月10日号
「筒本信一氏はジャクソン街1233に於て本日より薬店を開業したが、和洋化粧品及薬品を取り揃えてゐる。尚日本送薬については特に相談に応ずる由」
▪呉服店
「東郷商会開業」1949年10月26日号
「岡崎一男、井上政喜両氏は今回ジャクソン街600番(元木庭商店)跡にて東郷商会なる名前の下に来る1日より呉服店を開業、男物一切を取揃へ顧客の便を図ることゝなったが、この外日本送り慰問品も取扱う由。因みに 岡崎氏は戦前までジャクソン街角で東郷家具商会を経営してゐた人、井上氏は南6街、キング街で東郷洋服店を経営してゐた」
▪️洋食店
「新開業、イースタン洋食店」1947年1月29日号
「東初音さんは今回ジャクソン街651番、支那人洋食店を譲受けイースタン洋食店と改名、去る25日より開業」
「工費15万ドルの豪華洋食店」1950年11月22日号
「ハワイ名物の一つであるキャンリス・ブロイラーという最高級の洋食店を経営する成功者米人ピーター・キャンリュ氏は今回シアトル市オーロラ街2576に同名の支店を来る12月7日より開店することになった。工費15万ドルをもって建築された洋食店で、ハワイにおけると同じく従業員全部コック、皿洗い、ジャニター(管理人)、ガーデナ(庭師)、まで日系人を雇いたい希望で、とくにウエートレスとして日本着姿の日系女性15名を募集している」
▪️理髪店
「理髪店開業」1947年1月1日号
「以前第五街アルカイ、ホテル向側で理髪店を経営してゐた須藤宗雄氏は今回ソートレーキ市より帰還せられた五條庄太郎氏と共同にてメーン街412番に於て新式設備をなし理髪店を開業せらるゝことゝなった」
須藤宗雄、五條庄太郎両氏とも『北米年鑑』1936年版の理髪業の中に掲載されている。
「理髪床開業」 1948年7月16日号
「フランク谷川君は今回エスラー街1918で理髪床を開業したが、日中仕事の都合で髪を苅る暇さへない日本人のために午後9時まで開店して便宜を図るそうである」
フランク谷川氏は筆者旧連載「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」第6回「日本人理髪業の発展」の中で二世の床屋志願者として掲載された人物。
「理髪店譲受け」1949年11月11日号
「中島朝雄氏はエスラー街85 の理髪店を白人より譲受け昨日より開業」
▪️ホテル業
「ホテル譲受」1946年7月31日号
「片木一成氏は今回第一街701番ケニースホテルを白人より譲受け経営する事となりたるが同胞諸君の御投宿を願ふと」
「ホテル代替り」1947年3月5日号
「ジャクソン街655番 エバグリン(常盤ホテル)は、これまでフィルピン人経営なりしを池田対次郎氏が譲受け室内全部を改善したが、バス付ルームも沢山あるので日本人旅行者のためには特に便利を計る由。尚同館には月極めのルームも沢山ありと」
日系人商店の歳末大売出し
「歳末大売出しで活気づく同胞商店」1948年12月10日号
「冬の冷たい雨は時々雪をも交へて―シアトル帰還後4度目の年の暮も次第に近づいて来た。メーン街,ジャクソン街を中心とする同胞商店は早くも歳末大売出しを始め客足をひいてゐるが各商店とも漸く各商品が出揃い場所も狭しと色取々に陳列され帰還後の再建に努力する様子が伺はれる。『北米貿易会社』はドライグッド品を主に豊富な品物を揃えて破天荒の九仙売りを開始、元債を切って数百種を売り出せば、吉田さんの『バレーフードマート食料品店』では開業3周年記念大売出しと銘打って特別大売出しを開始、『田城金物店』は年末の在庫品整理のためハットポイント会社の優秀製品を景品付きで売出してゐる。『中村時計店』ではどなたにも喜ばれる贈り物を特別見切品として売出す一方RCAビクター製のテレビジョンを発売、裏川さんの『特等靴商会』では手持ち品全部を二割引きで日本人にヨク合ふ靴の大売出し、『疋田家具店』も家具調度品等を大々的に大安売りを開始、『千原時計店』ではウエスチング会社製テレビジョンを発売すると云ふ歳末気分を湧き立たせてゐるが、『天勝』の武さんは『買い物等でお忙しく食事するのにタイムがないナンテ云ふ時は何卒コチラへ』とお手軽なうどん、そばや丼物でお客様を呼んでゐる」
各商店の活気に満ちた年末大売り出しの様子が文面に如実に表れている。
再建途上のシアトル日本町(まとめ)
戦後、1949年頃までのシアトル日本町の再建の様子をまとめた記事である。
「再建途上のシアトル同胞」1950年1月1日号
「シアトル在住同胞数は1920年の最高約1万人といわれたが、漸次減り太平洋戦争の危機には帰国者続出、1941年には約7000人、終戦帰還開始後1947年4700人、48年5500人、49年6000人をやや上回ったと捉えられる。(表・グラフ①参照)最近でも各地に転任、散在してゐるシアトル人がポツリポツリと帰還してくる。老齢の第一世の凋落 はしかたないとしても、最近は第二世の結婚、第三世の出産が目立って多く、更生するシアトル同胞の活気をこの面で補ってゐる」
シアトル在住日系人人口の推移をみると、日米戦争による人口減はあったものの、戦後、多くのシアトル帰還により、徐々に人口の回復の様子が伺える。
「経済方面はまだ戦前の状態迄に回復していないがホテル・アパートメント210(戦前300) ダイウオーク(クリーニング業)50(120)、 グロサリー(食料雑貨店)35(120),レストラン30(60)、ガーデナー(植木屋)100組250人(80組180人)でホテル・ダイウオーク業の回復は目覚ましくまだ発展するものと予想されてゐる。その他 一般商界は多少の消長こそあれ戦前同様各方面にみられる」
この表を見ると(表・グラフ②参照)、ガーデナーは戦前を追い越し、ホテル、アパートメントは戦前には及ばないが、かなり近づいていることがわかる。
戦前シアトル日本町を作りあげた日系人は立退きによりアメリカ各地に散在したが、戦後シアトルへ帰還した多くの日系人の努力により、日本町が再興、戦前に近い町の賑いを取戻した。
次回はシアトル日系人コミュニティ組織の結成についてお伝えしたい。
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
①伊藤一男『北米百年桜』日貿出版、1969年・『続北米百年桜』日貿出版、1971年
②伊藤一男『アメリカ春秋八十年–シアトル日系人会創立三十周年記念誌–
③『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。