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第13回 日系人の入学した学校と日本からのアメリカ留学

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第13回 日系人の入学した学校と
日本からのアメリカ留学

前回は日本人の渡米とアメリカからの来日の記事を紹介したが、今回は日系人がシアトルで入学した学校と日本からのアメリカ留学の記事について紹介したい。

A.日系人の入学した学校

シアトル公立学校の開校

1949年8月29日号「各学校の開校、新入生は登録せよ」

「各学校の開校、新入生は登録せよ」1949年8月29日号

「シアトル市の公立学校はながい夏期休暇も終って愈々9月7日から開校、5万8千の児童はそれぞれ学窓にかえることゝなったが、キング郡内の各学校は6日にその他の郡は7日から開校され、ワシントン大学は9月28日から開校されることゝなっている。尚幼稚園や小学校の新入学生は、今週の水、木、金の3日間、夫々の学校に於て登録することゝなっているから、父兄は児童同伴出生証明書持参出頭するやう各学校では希望してゐる。因みに今回幼稚園に入学するものは本年11月1日までに5歳に達するものに限られているが、小学校の新入学生は本年11月1日までに6歳に達するものに限ると学校当局では発表」

ハイスクール卒業

多くの日系子女が、毎年6月にシアトルのハイスクールを卒業した記事が掲載された。

「学窓を巣立つ多数日系子女」1948年6月4日号

「来週めでたく学窓を巣立つ各高校の日系子女、校名、卒業式日時及び卒業生総数は次の如くである。(日系子女の姓名掲載)
ブロードウェイエジソン職業学校、日系子女3名、6月8日午後8時、同校講堂、135名
ガーフィールド高校、日系子女44名、6月9日午後8時、同校講堂、408名
フランクリン高校、日系子女10名、6月8日午後8時、華大ミュー会館、306名
クリーブランド高校、日系子女2名、6月9日午後8時、同校講堂、158名
タイナン高校、日系子女2名、6月9日午後8時、市公会堂、335名
ローズベルト高校、日系子女1名、6月10日午後9時、市公会堂、565名

上記の1948年および1949年6月6日号、1950年6月6、7日号の日系子女のハイスクール卒業生数の記事をまとめると、以下の表の通りである。

ワシントン大学卒業式

「ワシントン大学卒業式盛大に挙行さる」1949年6月13日号

「ワシントン大学卒業式は去る11日午後2時よりラングリー州知事臨席の下にエドモンドソン・パビリオンに於て盛大に挙行せられ1780名の卒業生に卒業証書が授与されたが、かくも多数の卒業生を出したことはワシントン大初まって以来のことで、その中には1千名の帰還軍人も含まれてゐる。尚本年優等の成績で卒業した日系学徒は左の如くである。二宮カルビン、佐藤秀光(ジョン)、鍋島晴人、玉田ヘンリー、谷口セオドラ」

B.日本人学生、大学卒業生のアメリカ留学

「アメリカへ留学生、招かれる6名」1948年7月26日号

「アメリカ留学の門が開かれ、つぎつぎと明るい話題をなげているが、今度はフロリダのロリンス大学卒業生で鎌倉市在住の松本康雄氏個人のはからいで6名の男女留学生が8月旅費も支給されてアメリカン・プレジデント・ラインの船で渡航することになった。ロリンス大学にはポルトガル経済史を専攻する上智大出の遠藤博元君(27)と美学専攻の西村クリさん(22)の2人。サザン大学には経済をおさめる東京外専卒の田中久博君(20)でこの3人は奨学資金がついている。入学許可書のみ来ているのはウイーテンパーク大学に管野勇君(28)(明大卒、経済研究)ジョン・ピーステートソン大学に入る佐久稔君(28)(東大卒、経済専攻)鈴木重子さん(25)(日本女子経専卒、歴史専攻)この人達は、昨年松本氏の処へロリンス大学から留学生を送る世話をしてくれとの便りが来たという新聞記事を見て押しかけた420名から選抜の上、決ったもので、またあと5名申請中だという」

「資格ある日本人学生米国留学を許さる」1948年11月5日号

「本日当局の発表する処によれば日本で習得することの出来ない学術を研究するため資格ある日本人学生の渡米を許可することゝなったと。右は国務省、陸軍省及びマッカーサー元帥によって許可されたもので、今後日本人の有資格者は教育、宗教、科学其他マッカーサー元帥によって許可された文化方面の学問を習得するために留学が許可されることゝなったが、学費一切は自費又は学校が負担しなければならぬといふことである」

「米国留学に朗報、来夏100名渡米」1949年11月9日号

1949年11月9日号「米国留学に朗報、来夏100名渡米」

「日本人大学卒業生の米国留学について次のような渉外局発表があった。総司令部民間情報教育局の発表によると米国政府は新たに日本大学卒業生の少なく共100名に1年間留学する機会を与える用意をしてゐる。最終的選抜が終れば合格者は来年秋の大学やカレッジに入学できる。資格は
▼大学卒業者或は卒業見込の者
▼年齢35歳以下
▼英語を読み書きし、理解する能力のある者
人選に当り、日本当局側としてはまづ教員、各部局の公務員その他米国へ留学させれば日本に最大限の利益をもたらす様な職業に就いてゐる者に優先権を与えるだろうが、予備試験が12月1日に東京、仙台、名古屋、京都、広島、福岡で行われる」

「米留学に志願者殺到、血書で文相に嘆願書、全国で6000名突破」1949年12月1日号

「総司令部の厚意によるアメリカ留学生の願書は去る26日締切りとなったが、文字通り願書は山積、文部省はじめ受付の九州大学、北海道大学、東北大学、名古屋大学、京都大学、広島大学の分を総計すると6千名を突破した。志願者のうちには、慶応大学法学部の米津和子さん、照子さんという双子の姉妹や兄弟十数組がゐる。また夫婦で仲良く志願してゐるのが数組あるが、話題をさらったのは東大建築学科在学中の三島一彦君(24)で米国で是非とも都市計画及び都心のビルディング建築につき研究し、日本の都市発展に寄与したいという熱望から文部大臣に血で染まった嘆願書を提出して注目された」

「晴れの渡米留学生決定、吉田首相次男も合格、最年少は20歳の娘さん」1949年12月24日号  

「米国政府および総司令部の厚意で行はれる渡米留学生選抜はさきに試験が施行されたが、60名に1人という難関を突破した合格者142名が20日文部省から発表になった。晴れの合格者の内訳は公務員が53名、教師35名、総司令部勤務者16名、その他新聞社から4名、期待された学生は2人きりであった。合格者のうち著名人の子弟はまず吉田首相の次男坊正男氏(33)(GHQ勤務)、元法相北村徳太郎氏養子剛輔氏(33)(東京教育大学助教授)終戦時の首相鈴木寛太郎氏の孫哲太郎氏(24)(東大法学部助手)があり、最年少者は20歳の平林安子さん(神戸市)がゐる。栄冠の142名は明年9月の新学期から1年間アメリカ各地の大学にわかれて留学する」

アメリカ留学志願者6000名で最終合格者は142名、競争率42倍の狭き門であった。

「歌の檜舞台へ初留学生石井好子さん、サンフランシスコから放送」1950年11月21日号

「音楽家として戦後初めての留学生として去る8月渡米、いまサンフランシスコのミュージック・アンド・アーツ・インスチュートに学んでいるソプラノ歌手石井好子さん(28)、(元、商相石井光次郎氏次女)近く、サンフランシスコのKYA放送局から日本の歌を放送するとの手紙がこのほど同校の声楽主任教授アルマ・ミンケリー女史から紹介者の音楽評論家京橋氏のところへ届けられ、戦犯解除の石井家に二重の喜びをもたらしている。好子さんは上野音楽学校を卒業後セミ・クラシック歌手として一時スター・ダスターズ楽隊の花形歌手でもあった人、歌の勉強のため近く、アメリカからパリに渡ることになっているが、放送するのは滝廉太郎氏の『荒城の月』などである」

石井好子さんは日本の代表的シャンソン歌手として有名で、戦後のテレビによく出演していた。

C.日本人留学生への応援、支援

「一万の留学生を招く在米邦人が祖国再建への『里親』」1949年5月31日号

1949 年5 月31 日号「一万の留学生を招く 在米邦人が祖国再建への『里親』」

「アメリカ本国やハワイに在住する30万の日系一、二世が学費を出して各家庭に一名ずつ故国から若い学徒を迎へて広い海外の智識と真の民主主義を体得させ、平和日本再建の原動力としようという留学生1万人招致運動が真剣にすゝめられている。すでに百数十名のアメリカの『里親』たちが申し出ており、その提供者の石川武雄氏は目下来日、各方面と折衝中で当局から許可のあり次第、留学生たちは渡米すると。石川氏はロサンゼルスで著名な都ホテルを経営するほか、観光、證券など各種事業を手堅く営んでゐるが、昨秋バイヤーとして来朝した際、戦後における日本学校の現状と日本の将来を憂へ、この運動を思ひ立ったという。12月いったん帰米後、直ちに講演、新聞などで、日系一、二世によびかけたところ全米各地からも賛成の声がわきあがり、お膝元のロサンゼルス在住者から早くも150余名の呼びよせ手続きの申込みがあり、米国当局に渡航許可を出願中という情勢になったという。具体的な実施方法はとりあえず、在米日系人が日本にゐる近親者のなかゝら向学心に燃える10代あるいは20代の青少年を選び、つづいて近親者ばかりでなく広く一般から募ることになってゐる。(中略)石川氏は次のように語る。『10年さき、20年さきの新日本の指導者を養成してあげることが在米日本人としての義務だと思ふ。在米日本人の生活状態は非常によく、戦時中の二世の動功がものをいってアメリカ側から50年来かつてなかった好遇を受けているからこの計画にはもちろん協力してくれるだろう。なほ留学生は近親者ばかりでなく日本の学生団体にも人選を依頼するつもりだ。また将来はアメリカ本国に身元引受人がなくて帰国できない日系二世を呼びよせ、勉強させる計画もたてゝゐる』」

「留学生にドル資金 米軍政協会日本支部の厚意」1950年6月24日号

「米国の各大学の奨学資金を獲得しながら渡航費用がないばかりに渡米できない日本大学生のため、米軍政協会日本支部では、昨年から宝くじなどの方法でドル資金をあつめていたが、このほどつぎの9留学生に一人平均600ドルの往復旅費がおくられた。なおこんどの9名含む22名にドル資金が与えられている。サンフランシスコ女子大学、稲葉章子、 フィリップ大学、賀川しげ オレゴン大学、大橋叔子、 ジョンホプキンス大学、浜良助東大理学部助教授、他1名、 オクラホマ大学、毛利利武、 病院看護学校、大塚寛子、 イーストマン音楽学校、大西愛子、 ミシガン大学、馬場恭子」

「ロサンゼルスに留学生会館 日系夫妻の念願みのる」1950年7月7日号

「現在アメリカの各大学で勉強している日本留学生は261名、さらにこの9月に渡米するものが142名(うち女子27名)あるが、この人たちのために、ロス市で病院を経営している一世夫妻が約100万ドルをだし、豪華な学生文化の殿堂ともいうべき学生会館を設立することになり、一部はすでに完成しているという。病院経営には成功したが子供が一人もできず、『何か社会のため有益な仕事をしたい』と念願していた夫妻の目にとまったのが終戦いらいぞくぞくと渡航してくる留学生の生活ぶりだった。オリンピック街に現在少年たちを収容している二階建の建物と土地を買収、今年中に80人を収容できる設備をととのへた豪華な男子学生会館をつくることになり一部はすでに完成しているが、来年は女子留学生会館を設立する計画で在米同胞間にも大きな反響を呼んでいるという」

シアトルに来た、日本人を含む外国人留学生を歓迎する記事があった。

「留学生歓迎午宴会」1950年9月23日号

「シアトル市商議主催の、各国人留学生歓迎午宴会は22日商議会議所で社交部長グレー氏司会の下に催されたが、席上ワシントン州駐在英商務官カーレー氏の講話あり。出席者約200名、盛会であった。尚当日出席した各国人留学生は60名で内日本人留学生は10名であったが、日本人側からは在外事務所のト部所長、林両氏、日会の三原、民部、戸田の3氏及び商議会は木野本、川部2氏が出席した」

日本人の苦学生へ、アメリカ各地の大学からの支援が行われた。

「苦学生へ贈物、ワシントン大学など30校から」1950年12月19日号

「クリスマスを前に東京水道橋の日本学生救済会本部にアメリカから多数の本、衣類、靴がこのほど到着した。これは日本の苦学生を救うためミシガン、コロンビア、ハーバード、ワシントンはじめ米国約30大学からよせられたもので、金額にして約1800万ドル、本年8月ボンベイで行われた学生 救済世界大会に初出場の日本代表藤田允さんが『日本の学生40万人のうち5%が結核患者で、健康保険のない学生のため是非結核療養所をたてたい』との熱望にこたえておくられた物資である」

D.学生の日米交流

1949 年11 月4 日号「戦後第3 回目の日米学生会議開く」

戦前、日米学生会議は開催地を日本とアメリカの交互に開催されていたが、戦後もこの日米学生会議は継続された。(戦前の日米学生会議については『北米時事』から見るシアトル日系人の歴史、第11回「二世の進学した大学」を参照)

「戦後第3回目の日米学生会議開く」1949年11月4日号

「戦後第3回目の日米学生会議が11月6日から12日まで一週間にわたり日本国際学生協議会主催のもとに東京、上智大学で開かれる。日米学生会議は1941年から46年まで戦争のため中止されてゐたが、1947年以来復活したもので、1934年に発足してから丁度10回目に当る。今年度の会議には日本在住の米大学生約50名と日本の大学生約100名が出席、『混乱から秩序へ』の議題で広く政治、社会、文化、宗教、科学のあらゆる角度から討論を行うものである」

E.日本人教員のアメリカ留学

「留学一番名乗り 京大の永井道雄氏」1949年5月16日号

「さきに井川、木原両博士を国際学会に送った教育陣から今度は初の京大文学部講師、永井道雄氏(26)は昨年11月東京で開かれた、文部省主催の全国教育学教授講習会の出席者80名の中から唯一人、アメリカ側の講師、イー・ルイス博士に認められ、オハイオ州立大学院に招かれることゝなり、4月末旅費、生活費、奨学資金一切の面倒をみると通知があったので、向う2ヶ年の予定で総司令部の許可あり次第出発することゝなった」

「日本教員50名8月中に渡米か」1949年7月7日号

1949年7月7日号「日本教員50名8月中に渡米か」

「総司令部民間情報教育局長ニュージェント中佐は、近く日本の教員50名が米国政府の招請で1ヶ年の講習を受けるため、米国留学が許されると発表した。この計画は日本、韓国、ドイツ、オーストラリアなど各国の援助を目的とした米国政府の予算によるもので、留学生の渡米旅費、生活費、授業料等一切の費用は米国政府が負担する。これについて文部省では、国立大学52校に早大を加えた53校のうちから自然科学関係を除き、一校4名以内の条件で6月までに候補者の推薦を終り、7日から3日間身体および学術試験を行って派遣者を決定。8月中に渡米、約1年間留学することになった」

「米国に留学する50教授決る。二女性も混る」1949年7月16日号

「総司令部の好意で大学教授50名のアメリカ留学が許されたので、文部省では国立、私立大学など53大学のうちから各大学長の推薦にもとづき167名の試験を去る7、8両日早大で行ひ、その結果を本日発表したが、更に身体検査を行った上、留学候補者を同校会議室に集めて、ニューゼント民間情報教育局長及び伊藤文部次官等が激励した。専攻科目は英語26、教育学9、心理学5、哲学4などで、女性2名もまじっている。一行は8月末渡米、アメリカ各地の大学で1ヶ年間勉強する」

「初の交換教授、二世学者が来日、東大から服部教授」1950年3月4日号  

「戦後多くの学者が渡米して活躍しているが、こんど初の交換教授として日本側からは東京大学文学教授服部四郎氏がミシガン大学へ、米国側から同教授と交換にミシガン大学日本語教授の二世ジョセフ・山崎氏が東京大学へくることになった。初の交換教授については先に渡米した東大南原なんばら総長がミシガン大学で話をまとめたものであり、服部教授は言語学の権威として知られている。また来日するジョセフ・山崎氏は太平洋戦争中に米国の日本語教育に中心となった人で、来日後は古典日本語を研究することになっているが、二世学者の来日ははじめてのことであり、各方面から注目を浴びている」

多くの日本人学生に、アメリカ留学への強い願望があり、非常に高い学習意欲が感じられる。また、アメリカでは日系人が日本からの留学生を暖かく迎え、支援していこうという強い気持ちを持っていることが伺えた。

次回は太平洋航路の再開の記事についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。