Home 食・旅・カルチャー 私の東京案内 谷中、千駄木、根津 3

谷中、千駄木、根津 3

不忍通りをさらに南下し、それが言問い通りと交差するあたりに根津という地がある。根津神社(国の重要文化財)がある。旅館「澤の屋」からは大通りを越えて徒歩4、5分の距離である。上野の山の裾の盛り場の雑然さと騒音を離れて、ここまで来ると神社の周囲だけとしても、奥深い山の雰囲気が味わえる。今の社殿の建立は18世紀始め江戸時代だが、その元はなんと1900年前、作ったのは日本武尊(やまとたけるのみこと)で主神はスサノオノミコトだというから、神話の時代に近い。

根津神社は、わたしに言わせると、他の神社といろいろな点でちがう。正門の前に立つ鳥居の赤色は普通に見るオレンジがかった赤ではなく深く渋い赤色だ。そのアクセントのように長い塀は緑色で、「すかし塀」というのだそうだが、ずいぶん手の込んだ作りで他では見ないものだ。もっと言えば、神社総体が「権現造り」という様式だそうで、本殿をはじめ全部で7つある社殿群は、全体の構造的な調和を考えて建ててある。棟唐門と桜門という二門も立派な建築で(重要文化財)重厚ながら彩色のためか親しみやすい。

つまり、この根津神社は「すばらしい」ひとことにつきると言ってよい。そこに佇み、建築物とその周囲を眺めるだけで美的な満足感に浸れる。歴史の古さだけではない。わたしの意見では東京探訪の必見のひとつである。境内の一角の高台には稲荷神社がある。その千本鳥居は例の鮮やかなオレンジめいた赤色彩だ。五月にこの小丘がつつじの花でいっそう華やかになる頃につつじ祭りがある。

車の多い不忍池通りからまっすぐ神社の正門に到る道は短いが、昔はそこが門前町としてたいへん賑わったとか。今は想像しがたいが、その頃はそこに遊郭もあった。これは明治中頃に隅田川を越えた深川の須崎に移転させられた。その理由は、東京大学が近く、学生のためによくないというものだったとか。根津神社は今も健在。まわりは静かな住宅街だが、最近は小さいみやげ物やレストランなどを見かける。これ以上変わってほしくない場所の筆頭である。

たしかに、東京大学のキャンパス、とくに農学部は根津に近い。キャンパスの周辺には、先の大戦の火を免れた古い木造の家屋を見かける。なかには営業しているものもある。戦前に学生相手の下宿だったものが変身したわけで、これも東大の近くならではのこと。

文京区は広い。その西北には小石川植物園の広大な緑地帯があり、南端近くには小石川後楽園という江戸時代に作られた庭園がある。前者は東京のなかで自然を満喫できる少ない場所のひとつだが、訪れる人は少ない。足の便が良いからか、後者は、特に春と秋ににぎわう。浅草の項で述べた樋口一葉が小説を書き始めた頃に住んだ家もこの辺(菊坂)で、その家が当時のままに現存し東京探訪の人たちがやってきた。つい最近行ってみたら、その小いさい家は消えていた。この10年で本郷界隈はずいぶん変わったのだ。

根津から秋葉原への交通は、不忍通りを走るバスで徒町の近くまで行き、そこからJRに乗って一駅目である。不忍池の南端からなら歩けないことはなく、昌平橋通りを下って湯島坂通りへ出れば、秋葉原の駅はすぐである。しかし探訪は別の日にしたほうが良い。次に予定する神田とお茶の水の探訪の最後に入れる予定だ。
(田中 幸子)

編集部より:筆者への連絡先はytanaka03@gmail.comになります。

北米報知は、ワシントン州シアトルで英語及び日本語で地元シアトルの時事ニュースや日系コミュニティーの話題を発信する新聞。1902年に創刊した「北米時事 (North American Times)」を前身とし、第二次世界大戦後に強制収容から引き上げた日系アメリカ人によって「北米報知(North American Post)」として再刊された。現存する邦字新聞として北米最古の歴史を誇る。1950年以前の記事は、ワシントン大学と北米報知財団との共同プロジェクトからデジタル化され、デジタル・アーカイブとして閲覧が可能(https://content.lib.washington.edu/nikkeiweb/index.html)。