谷中を探訪するのに、上野公園からの延長ではなくJR日暮里駅から始めるという手もある。実際、成田空港から直接ここへ来るのは簡単なのだ。日暮里駅で電車を降りたら北口側へ出る。広場を横切ると、線路をまたいで対岸の小高い地点に出るための階段がある。それを100段ほど登る(あるいはエレベーターを使う)のだが、階段の上からの見晴らしは良く、谷中が丘の上であることがわかる。
渡りきった階段を登りつめた所が谷中墓地の一部である。寺をひとつ二つ見ながらしばらく歩くと、今度は下りの階段がある。これが「夕焼けだんだん」。いつ誰の命名か、階段の上からは夕日が臨める。階段の下は小さな商店街で地域の人たちの生活を担ってきたどこにもある商店街だった。今は、谷中が観光地化するなかで、みやげ物やお茶、食事をする店舗などが加わって、人出も少なくない。「谷中銀座」などと謳う通りとなった。
谷中の西の境界線は不忍通り。上野公園内の不忍池の西端に沿って北西へと伸びている、バスが走っている通りだ。その通りの西側は文京区(谷中は台東区)で、その境界に沿うようにあるのが通称「へびの道」。両側には小さい住宅が並ぶその細い道はくねくね曲がっている。「へびの道」とは言い得て妙だが、実は埋め立てられる前は藍染川という川で、それを埋めて区の境界線にしたことがわかる。そういう例はここだけではない。江戸時代、(川)との連続性(道)がこういう所に見ることができるのだが、ただ見ただけではわからない。
へびの道の文京区側は千駄木という場所で、昔も今も静かな住宅地である。明治の文豪森鴎外が小説に描いた団子坂は、庫の近くの菊人形の展覧で知られた場所だ。鴎外は千駄木に住んだことがあり(夏目漱石も)、その屋敷を「観潮楼」と名付けた。二階から海が見えたからで、辺りには他にも汐見坂という坂がある。その坂上からも海が見えたにちがいない。ここは上野台地にならぶ本郷台地の一部なことに気がつく。
森鴎外記念館は最近建った立派な建築物で、周囲にうまく溶けこんでるとは言えない。だが、文京区に住んだ作家たちのなかで、こうして鴎外だけを特別扱いという姿勢は面白い。作家であると同時にドイツへ留学した陸軍付き医官という肩書きが影響していると思われる。鴎外には上野周辺を舞台にした作品がいくつかあり、読むとそのあたりの昨今の様子がわかって面白い。
千駄木を歩いたら、寄りたいのは旧安田楠雄邸。最近、「日本ナショナルトラスト」の保護下におかれるようになった。最近までは代々人の住んでいた現存する大正時代の建築として貴重である。また、いわゆる「近代和風住宅」の一例であり、関東大震災と大戦の爆火を免れている。庭は和洋折衷で、植木類は家屋の建築当時のままだそうだ。家のどの部分から見ても庭が楽しめるように造られているそうで、代々住んだ人がよく手を入れをしてきた。正月の七草粥や七夕の催しなど、毎月なんらかの伝統行事の一端を披露しているので、その日に合わせて訪れるのも一興。文京区はこの他に瀬川家(本郷二丁目)と村川家(目白台3丁目)を「今に生き続ける歴史的建造物」として保存の労を取っている。
(田中 幸子)
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