Home 食・旅・カルチャー 私の東京案内 四谷から新宿へ 3

四谷から新宿へ 3

文=田中 幸子

それまで東京の玄関である丸の内にあった東京都の庁舎は、1991年に新宿へ移った。駅西口近くにあった浄水場跡に2年半をかけて建てた、地上48階地下3階の第一と第二のビルである。それに加え、56階の高さをもつ「タワー」がふたつ並んでそびえ立ち、完成当時は日本一の高さを誇った。その後、横浜ランドマークタワーや六本木のミッドタウンタワーにその地位をゆずったが、都庁舎は、今も東京のランドマークであることに変わりない。
庁舎は丹下健三のデザインによる鉄筋コンクリート、ノートルダムをイメージしたといわれている。それを「タックスタワー」とか「バブルの塔」と悪口を叩く人もいたのだが、それ以前に周囲は超高層ビル街だったから、庁舎の建設をその延長と見るむきもあった。そして、その建物を見た人びとの胸には疑問が湧いたにちがいない。それまで信じてきた「開発が果たして良いことなのか」――。そういう戸惑いを含んだ疑問だったのだろう。
それはともかく、この「バブルの塔」を見に来る人(用事のある人以外に)は今も後を絶たない。45階にある展望室はガラス窓でぐるりと囲まれているから、ビルの林立する新宿の街の展望が可能である。展望台は他処のビルにもあるが有料が多い。ここは無料で一階には英語をはじめ、外国語の東京案内パンフレットが置いてある。都庁舎はいまだ東京観光の目玉のひとつだから行ってみるべきだ。
都庁舎が建つ頃には、新宿はすでに西口時代になっていた。そこには外国資本の大型ホテル(ハイアット、プラザ、ヒルトン)や高層のオフィスビルもあり、周囲には広い道路がまっすぐ走り、あたりには人はあまり歩いていない。
道路はもっぱら車のためのようだが、幸いなことに、庁舎はそのすぐ横に中央公園という広い緑地を控えている。また、街路樹を植えたり植え込みをしつらえるなどの考慮もなされている。だからだろう、コンクリートの高層ビルとタワーも近くに来てみれば、遠望したときのような威圧感はない。
そこから歩ける距離にある新国立劇場(三宅坂の国立劇場が伝統芸術、ここは西欧風演劇やバレー、オペラなどを上演)へ行ったときに、わたしは都庁通りや中央道りをよく歩く。あたりの街路樹も今ではかなり成熟していい具合だし、その周辺は好きな東京散歩路の一つなのだ。
昼食時であれば、庁舎の食堂もだが、近くにある高層のビルには、レストランがいくつもあるから、よりどりみどりのランチ定食が安くいただける。
庁舎より少し駅近くにあるのがプラザ通り。そこにある京王プラザホテルは、新宿西口に今はいくつも建つホテル群のはしリではないかと思う。ビル=マーレーとスカーレット=ヨハンセンが出演する映画『Lost In Translation』の舞台となった。カメラが写すのはホテル内がほとんどだが、仕事で新宿に来ているふたりは、「東京ジャングル」のなかへ出て行くわけにはいかないと思っている。そういう感じを映画は伝えていた。
しかし、ここ新宿で見失われる(LOST)ものは、言葉の意味とかニュアンスだけではないだろう。そう思うときには隣の中央公園へ行って、子供の遊び場にいる母子を眺めるのがいい。このあたりにも、普通の家族が住んでいて、なんということのない日常の時間が流れている。
ある日、このあたりを歩いていて、たまたまちょっと変わったミュージアム(展示室)を見つけた。住友ビルの48階にある「平和記念展示資料館」だが、先の大戦最中、また直後の、日本人の生活を展示物で知らせている。ひとつの部屋の展示は、ソビエト連邦によってシベリアに抑留、労働を強いられた日本兵たちの生活の様子(山崎豊子著の『不毛地帯』を参考にすると良い)が、手製の食器や防寒具の展示をもって示されている。手製の品々もだが、当人たちの描いたという絵が胸に強く響いた。
もうひとつの部屋には海外からの引揚者たちの当時の生活を語る品々がある。最後の部屋は、海外へ出兵していった兵士たちの様子が、「お国のために…危険な戦地に向かい命をかけて…」という説明とともに並べられている。どんな団体、あるいは個人がかかわった展示資料館なのか知りたかったが、パンフレットには「総務省委託」としか書いてない。私がいる間に来訪者は他に二人だけ。ひっそりと大都会の片隅、それもビルのジャングルのなかにあるこの展示場を知る人は少ないだろうが、私は自分の発見に驚き満足もした。入場は無料、年末年始と毎週月曜日以外は、いつも開いている。