Home 食・旅・カルチャー 地球からの贈りもの~宝石物語~ 牛久シャトーと大正ロマン

牛久シャトーと大正ロマン

「平成最後の」が枕詞のように飛び交った年末年始も落ち着いてきた。改元は5月1日からだが発表は4月1日、エイプリルフールズデー。違った意味でもドキドキしてしまうのは私だけであろうか。それはともかく、本年もよろしくお願いいたします。

マリナーズに菊池雄星選手の入団が決まり、また新たな日本人選手がシアトルで活躍するかと思うとワクワクする。私がまだ学生だった頃、佐々木選手(当時)やその後イチロー選手がマリナーズに加わり、日本でのシアトルの知名度もグッと上がった。岩隈選手が去ってしまい残念だったが、新しい
世代の菊池選手がまた米球界を盛り上げてくれるだろう。

私にとっての米国の故郷であるシアトルはおめでたい話で新年が始まったが、日本の故郷である茨城県牛久市では淋しい年明けになってしまった。牛久市には国の重要文化財である牛久シャトーがあるのだが、その同敷地内にあったレストランや土産物店などの商業施設が12月28日をもって閉鎖してしまったのだ。明治36年に施工されたとされるシャトーの事務室、醗酵室、貯蔵庫が2008年6月9日に重要文化財の認定を受けた。明治36年は西暦1903年で、ライト兄弟が人類初の動力飛行をし、第1回ツール・ド・フランスが開催され、フォード社が設立された年でもある。北米報知の前身である北米時事が創刊した翌年だ。

当時はブドウの栽培から醸造、そして瓶詰までしており、文化的というだけでなく技術なども最先端の物であったようだ。牛久の人間以外は殆どこの牛久シャトーの凄さを知らないのだが、当時は板垣退助や当時の政界の要人も訪れており、その重要さは認識されていたようだ。私個人としては、幼稚園の時に牛久に引っ越して高校卒業までそこに暮らし、実家もまだそこにある。シャトーの大きな樽が並ぶ醗酵室(というか蔵)に入った瞬間のカビの匂いは、一瞬にして初めて嗅いだ幼稚園の頃の記憶を呼び覚ます。その2階は創設者である神谷傳兵衛の記念館になっており、建設当時から現代までの写真や記念品などが展示されている。

先に述べた板垣退助が、彼のために催されたと思われるパーティーにてカメラの方を向いて写っている物もある。しかしそれよりもっと興味深くいつも見入ってしまうのが、何枚か飾ってある当時のお酒のポスターだ。和服姿の女性がワイングラスを傾けているのだが、その指には必ずと言って良い程リングがはめられている。ポスターのはっきりした年代は分からない。リングのデザインから言うと明治後期から大正ぐらいだろうか。明治は西暦でいうと1868~1912年、大正が1912~1926年。大正時代は超人気英国テレビシリーズである「ダウントン・アビー」の舞台背景である1912~1925年と丁度重なっていると言えばイメージが沸くだろうか。明治36(1903)年から1920年代半ばというのは文化的にも特徴があり、ジュエリーデザインにおいてもそれが反映されている。

63年7か月に及んだヴィクトリア女王の在位が終わり、エドワード7世が即位したのが1901年。その在位期間はたった9年で終わってしまったが、エドワーディアンというデザイン様式は、文化史に名
を遺すほど特徴的だ。アール・ヌーボーやベル・エポックスタイルとも似通ったところも多く、はっきりとした線引きが難しい程。簡単に言えば自然回避的であったり、ロマンチックなデザインが多い。トンボやクモなどの昆虫をモチーフにしたハイジュエリーが市民権を得たのもこの頃である。エナメル加工の技術やプラチナ加工の技術が発達し、アフリカでのダイヤモンドの鉱山発見。これに伴い、細く丈夫なプラチナでダイヤモンドを繋いだ様な繊細なデザインが可能となった。

この時代、ティー・ガウンと言われる、パステルカラーのシフォンやレースやフリルなどを用いた、それまでの時代に比べて軽やかなドレスが流行りだした。そんなドレスに合うのは、はやりデリケー
トでロマンチックなジュエリー。地元愛を誇示していたら字数が少なくなってしまったので、続きは次回。

(金子 倫子)

80年代のアメリカに憧れを抱き、18歳で渡米。読んだエッセイに感銘を受け、宝石鑑定士の資格を取得。訳あって帰国し、現在は宝石(鉱物)の知識を生かし半導体や燃料電池などの翻訳・通訳を生業としている。