北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
筆者:新舛 育雄
第6回 日本人理髪業の発展
前回はシアトル発展に多大の貢献をしたシアトル航路についてお伝えした。今回は1918年以降のシアトルの日本人理髪業発展に関する記事、1939年頃に理髪業を目指す二世達の記事について紹介したい。
シアトル日本人理髪業
シアトルでは、日本人経営の理髪業が1910年以降に大きく発展した。その繁栄は「新舛與右衛門 – 祖父が生きたシアトル 第2回 シアトルでの最初の仕事と生活(2019年6月28日号発行)」でも紹介した。1916年にはシアトルには日本人経営の理髪店が76軒あった。一方、同年のシアトル市全体の白人経営の理髪店は325軒。白人経営の理髪店からは、日本人理髪店を排除しようという動きがあった。そんな中で、1907年に伊東忠三郎を組合長として創立された日本人理髪業組合は、白人同業者と調和共存していくために懸命な活動をした。彼らの努力の痕跡を、『北米時事』の中で見ることができた。
日本人理髪業組合
「理髪店組合総会」1918年1月14日号
「昨日午後より日本館ホールに於てシアトル日本人理髪店組合総会が開かれ午後7時より新年会が開かれた。参加者は男女の組合員約200名に達し、来賓としては松永領事、北米日会の高橋、築野、菊竹、大北日報の竹内、北米時事社の宮崎、白人側は理髪試験官、白人組合副会頭等夫妻数名にて『まねき』の仕出しの料理、折詰等の宴席があった。伊東忠三郎が司会者として松永領事を紹介し、日英両語の演説をおこなった。次に前試験官レイ、高橋北米日会長、白人組合副会頭アイビイ、大北日報の竹内、現試験官マックゴーヂ、北米時事社の宮崎らが逐次所感を述べた。片山通弁は組合顧問として英語演説を和訳し、何れも大喝采を博した。第一式終わり第二式に移り、各種演芸は来会者の大喝采を博し、近来稀なる盛会なりき」
このように、伊東を中心とする理髪業組合のリーダーシップの下で、多くの日本人の理髪業者が新年会に出席し、皆の親睦を図り、結束を高めていっただけでなく、白人同業者とも協調しながら、安心して仕事ができる環境が出来上がっていた。
同日号の「見たり聞たり」で理髪業組合について、解説された。
「理髪業組合は現有会員175名で男子88名、婦人87名。
この記事から1918年1月時点では約87軒の夫婦共稼ぎの日本人理髪店があったと推測される。筆者の祖父、與右衛門も1918年にはワシントン街163に夫婦共稼ぎで理髪店を開き、多くの白人客で繁昌していた。
「理髪業組合新役員」1918年1月25日号
▼理髪業組合新役員 (『北米時事』1918年1月25日号、その他文献より)
役職名 | 氏名 | 出身地 | 備考 |
組合長 | 伊東忠三郎 | 山口県大島郡仲浦村 | 1893年渡米、北米日本人会長(1921~)、山口県人会長 |
副組合長 | 権藤宗吉 | 福岡県三井郡 | |
会計 | 原実三 | 山口県 | 大戦前まで一貫して会計 |
取締 | 国行幸十 | 山口県大島郡安下庄村 | 1899年カナダ上陸、1900年~シアトル |
書記 | 福田清太郎 | 福岡県 | |
評議員 | 赤司益良雄 | 福岡県 | |
評議員 | 尾野良太郎 | 福岡県 | |
評議員 | 小林伝兵衛 | 山口県 | |
評議員 | 岩見福次郎 | 山口県吉敷郡湯田町 | 1903年渡米以後一貫して理髪業 |
評議員 | 岩見三代次郎 | 広島県 | |
評議員 | 伊海芳太郎 | 静岡県 | |
評議員 | 浜本静一 | 山口県 | |
評議員 | 篠田市次郎 | 福岡県 | |
評議員 | 重富外吉 | 福岡県 | |
評議員 | 桑原彦三 | 広島県安佐郡 | |
評議員 | 上杉竹次郎 | 山口県熊毛郡上関村 | 與右衛門親戚 |
評議員 | 藤村市助 | 山口県 | |
評議員 | 吉田才助 | 山口県熊毛郡上関村 | 1908年渡米(與右衛門親戚) |
評議員 | 西田源吉 | 福岡県 | |
評議員 | 吉田龍之輔 | 山口県熊毛郡上関村 | 與右衛門と共同経営 |
評議員 | 佐藤律 | 福岡県 | 大戦前、副組合長 |
1月13日の定期総会で新役員が決定されたことが同号に掲載され、役員の名前が記述されている。文献住所録による出身県の内訳は、山口県10名、福岡県8名、広島県2名、静岡県1名となっている。
評議員の佐藤律は『北米百年桜』で白人組合との苦闘の歴史を克明に語っている。1907年シアトルに来た時は伊東に助けられ理髪業を始め、第二次世界大戦前は会計の原実三と共に副組合長として伊東を支えた。同大戦後もシアトルで理髪店を開いたが昔の苦しかった時代とは隔世の感がすると語っている。
同じく評議員の岩見福次郎は山口県出身。1928年に著者の祖父である與右衛門が不慮の事故で亡くなった際、葬儀案内に友人代表として名前があった人物だ。また、與右衛門と同郷で親戚の上杉竹次郎、吉田才助、吉田龍之輔の名前も役員として記述されている。1919年10月9日号記事には、吉田才助、吉田龍之輔が故郷へ一時帰国する前に、「玉壺軒」で盛大な送別会があったことが報じられていた。吉田才助は龍之輔(ジム・ヨシダの父)の兄で、「桜華樓」の経営を行うなど、シアトルでは有名人だった。
白人組合と協調して料金値上げ
「法外な理髪値上」1918年4月24日号
「現在45仙の理髪料金を明日から突然75仙(理髪料50仙、髭剃り25仙)に値上げするとは思いきって上げたものだ。日本人理髪業組合は白人のユニオンと行動を共にするという認諾(にんだく)はあるが、実際そこまで上げなくてもよい。やむを得ず値上げするとはムズ痒い話。物価騰貴の際、値上げもやむを得ぬが、突飛至極(とっぴしごく)だ」
45仙は当時の日本円で約90銭、現在に置き換えると推計900円ほど、75仙は当時の日本円で約1円50銭、現在に置き換えると推計1500円ほど。
「理髪値上げに就て」1918年4月26日号
「組合長伊東氏来社し語るところによれば、白人家持当業者にて最低75仙で決着したと日本人側に通知があった。当方も余り突飛なれば先ず、60仙にし、次に75仙に値上げを交渉したが応ぜず。若しこれに反すれば、ユニオンの客が来なくなるので突飛としりつつやむを得ず値上げせしなり」
伊東の提案は当初白人組合幹部の理解はあったが、白人組合内での総意を得ることができなかったようだ。4月30日号には「独立理髪計画」で組合を離脱して日本人だけのお客に限定して営業していこうという動きまで起こった。しかし、最終的に伊東は、白人社会との協調を計るため、苦渋の選択として、やむなく白人側と同じ値上げに踏み切った。
シアトル総ストライキ
「日本人関係」1919年2月4日号
1919年2月、シアトル造船職工約2万5000人のストライキに同情して、シアトル全域にあった百数十の各労働同盟が総ストライキを決行するという事件があった。その際、日本人社会へどのような影響を及ぼすことになるか、北米時事の記者が日本人理髪業組合長の伊東氏を訪問して取材している。そこで氏は次のように語った。
「白人理髪業組合本部を訪問し意向を尋ねたるに白人側に同情を以てストライキをなすことに決定。日本人同業者に対する態度は未だ決定せず。(中略)日本人同業者も白人組合にて同情を要請する決議あらばこれに賛同されたしと云っている。このため日本人同業組合は白人同業組合の決議に基づき進退する考えなるが、総ストライキ決行の暁は、彼らより何ら交渉なくとも、客は少なくなり、更に電気、水道などすべて途絶さるる如きなれば、日本人理髪店も営業不可能となるべきは明らかなり。寔(まこと)に不肖なる事にて、一般経済生産発達の上に悲しむべきことなり」
日本人理髪業組合も、やむなく白人同業組合に賛同して休業。ストライキ終了後の2月11日から開店営業した。2月10日号には、その開店広告が掲載されていた。
操業時間も同調
「北米日会協議会」1919年7月31日号
「日本人理髪業組合は従来、白人同業者組合と連絡し、一致の歩調を取ってきた。今回、現在実行しつつある白人同業者組合の営業時間に共同方を勧誘してきた。審議の末、時勢の要求に適応すると同胞の態度を明瞭にするため、次の通り決定した。1919年7月末日 シアトル日本人理髪業組合。『開店午前8時、閉店午後7時、土曜日に限り閉店午後9時、8月4日より実行す』」
これまで、日本人理髪店は毎日朝7時から夜9時まで営業した。白人側から見れば日本人は働き過ぎで自分達のビジネスの邪魔をすると考えた。そのことが排日の一つの原因ともなっていた。これを防ぐため、日本人組合は白人側の要求を受け入れ操業時間短縮に応じた。
スペイン風邪流行
「理髪業者はマスクが必要」1918年10月24日号
「市当局の命令によりシアトル市の理髪業者は流行感冒の伝染を防ぐため、今日から病毒除けのマスクを使用しなければならぬこととなった、シアトル市の昨日の新患者は302名で死者12名に達した。昨夜入港した鹿島丸によると、感冒は日本にも侵入、同船出発当時に数名の患者が発生していた。(中略)又パリ来電によれば同市にも激烈なる流行感冒症発生し、過去の一週間に886名の病死者を出した」
当時のシアトルでの流行の様子、1918年11月12日号に掲載
「ワシントン州衛生局から10月2日に特別調令を発して覆面令が出されていたが、11月11日覆面令撤廃の快報が伝えられた。10月2日から昨日までの死者合計は485名。患者数は10月9日迄に一万余名となっていた。この間、演劇、活動写真、寺院、学校等はすべて閉鎖されていた。又各商店の営業時間も午前10時から午後3時までで、食料に関する以外の業種は、土曜日は閉店となっていた」
100年前も感染防止対策として、このような厳しい規制が敷かれていた。理髪店はこの期間、時間制限とマスクの使用を義務付けられた。同年11月16日号には、制限令解除後も再発防止のため、理髪業者にはマスク使用を強く求められている記事が掲載されていた。
後を継ぐ二世達
1930年以降、不況や日米関係悪化から日本へ帰国する日系人が増えるなか、理髪業者の減少も見られた(理髪店軒数参照)。一方で、残った家族の中には二世が理髪業を引き継ぐという流れもあったようだ。そんな当時の記事を紹介したい。
▼シアトル日本人理髪店軒数
年 | 理髪店軒数 | 出典 |
1903 | 18 | 『米国西北部日本移民史』1929 |
1908 | 23 | |
1913 | 51 | |
1916 | 76 | 『大北日報』1916-4-1 |
1918 | 87 | 『北米時事』1919年1月14号記事より推測 |
1923 | 118 | 『米国西北部日本移民史』1929 |
1926 | 81 | 『北米年鑑』1928 |
1935 | 36 | 『在米日本人史』1940 |
「何と愉快ではないか第二世嬢の床屋さん」1939年1月13日号
「(その一)べインブリッジ島で理髪店を経営する中田実蔵氏の次男、百一君は昨年ベインブリッジ・ハイを卒業した青年であるが父業を承け継いで、実社会に乗り出したいと決意し、今春早々、第一街104のモラー・バーバー・カレッジ(MBC)に入学。バリカンを握って卒業の日を楽しみに待っている。
(そのニ)メーン街で理髪業を営む椿原九助氏の令息澄夫君も『父はバリカンで我々を育て上げたのだ。我々もバリカンで実社会に立とう』と初々しくも決意し、目下MBCに通学している。
(その三)ワシントン街ユニオン・ホテル経営者下紺(しもこん)正留氏令嬢ミチエさん(19歳)は娘さんながら中々しっかりしたもので、日本人社会に居るかぎり第二世であっても職業教育を受けておく方が将来の為になると考え、MBCで学び、この度、めでたく卒業。近き将来どこかの床屋さんで働くか、自分で開業するかしたいと云っている。第二世嬢の床屋さん、何と愉快ではないか。
(その四)ケントの農業家谷川業吉氏の令息、フランク君も第二世の床屋志願者で、率先してMBCに入学。既に卒業証書を獲得。床屋開業の準備中である」
「北米春秋、第二世の床屋さん」1939年3月9日号
この二世の床屋の記事について、北米時事社社長の有馬純義(ペンネーム花園一郎)が「北米春秋」で次のように語った。
「理髪業は我が社会の発達途上に大きな役割を果たしてきた。しかも近年は新しい徒弟もなく、開業者もなく、従来の惰性でわずかにその存在を残してきたというも過言ならざる状態になっている。然らば理髪店は今後有望でないかというと、決して左様でない。新しい設備と新しい腕を持ってやるなら発展の余地は十分あることと思う。そして日本人には適した仕事なのである。いつまでもトラック・ドライバーが第二世の仕事ではない。僕は第二世の床屋さんの出現の記事を最近の北米時事で最も愉快に読んだのである」
日系一世が大変な苦労をして作り上げた理髪業を引き継ごうという二世達がいたのだ。
以上のように日本人理髪業は、日本人ならではの特性を生かしてシアトルの地で発展した。この発展を支えたのは、白人同業者からの執拗な差別と排日運動にもめげず、懸命に活動した伊東忠三郎をリーダーとする日本人理髪業組合だったことが『北米時事』の記事から読み取ることができる。
次回は理髪業と同様にシアトルで発展した日本人ホテル業についての記事を紹介したい。
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
①『北米年鑑』北米時事社、1913年。②竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年。③伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年。
筆者紹介
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。
『北米時事』について
鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。