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第9回 二世の活躍 〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第9回 二世の活躍

前回は日系人の帰化権獲得問題についてお伝えしたが、今回は戦後の二世の活躍についての記事を紹介したい。

1910年頃から二世の出生者数が増加していき、1919、20年頃にはそのピークに達した。アメリカ国籍を持つ二世が戦後には40〜50歳となり、日系人社会を支えていく存在となった。


戦前の二世の思い出

「鳥飼太郎、鶏鳴録、日系市民協会創立時の思ひ出」1948年5月12日号

「日系市民協会創立当時を回顧すると、隔世の想ひがある。二世は生まれたが、その資格さへハッキリ承知してゐなかった当時である。(中略)
二世問題に知恵がつくと日系市民を利合りあいして団体を創立し、民権擁護に努力させては、といふ意見が有力化し、日本人会の肝煎で市協は生まれた。最初の命名は『シアトル進歩市民協会』であった。設立当時、会は組織したが資金は、といふ緊急問題が出て、所謂大会社銀行を顧問に及んだ。処が、寄付金を得たのみでなく、支店長から二世問題に対する種々な注意や意見を聴いた。面喰ったことは、説明者以上に二世の資格、立場を理解し、且相当な注文を受けたことであった。二世は米国に対して忠誠であるべきこと、日本思想を注入してその頭脳を混乱せしめざること、権利擁護と共に、品性陶治とうやを怠らぬこと、などは意見の核心であった。斯くして市協の基本金は出来た。(中略)
創立以来初めての大会は開かれ引締まった議場に民主主義気分を漂わせ市民団体に相応ふさわ しい雰囲気に、気炎万丈きえんまんじょう 若人の将来を約束されたやうな感を与えた。然るに、間もなく倦怠期に入り、遂に市協の存在すら世人に忘れられた。それではならぬと沿岸遊説ゆうぜい を計画し、荒井成彌せいや 君の努力により更生を見たのみか、全米市協結成の端緒たんしょ は開かれたのである。当時の青年連も次第に円熟の境にいり、中には50歳を超えた人もある。吾等も老いたが若人も40を過ぎ、分別盛りの活躍振り、頼母しい限りである」

戦後の二世の活躍

前駐米大使、堀内謙介氏談

戦前駐米大使だった堀内謙介氏が二世について次のように述べた。

「目立つ二世の活躍、堀内謙介氏の帰朝談」1948年8月30日号

『北米報知』1948年8月30日号「目立つ二世の活躍、堀内謙介氏の帰朝談」

 

去る6月2日からロサンゼルスの本部で開かれた道徳的再武装十周年世界平和建設大会に出席した日本代表前駐米大使堀内謙介氏は帰朝後最近のアメリカについて次のように語った。『日系市民の近況については、戦前あまり行かなかったシカゴ市に1万5千人位、ニューヨークに5千人くらい進出して二世は政府、銀行、会社など各方面で活躍してゐる。カリフォルニア州でも北部に2万、南部に4万位で、アメリカの対日感情は戦前よりよいくらいだといってゐる。二世学生の連盟も出来ており、帰化権の問題、日本の移民割当の獲得などに運動してゐる』

リーダー・ダイジェスト社日本語版編集長、鈴木文史郎ぶんしろう 氏談

戦前はジャーナリストとして活躍し、戦後は雑誌社の「リーダー・ダイジェスト」初代日本語版編集長に着任。後年は政治家としても知られた鈴木文史郎氏が二世について次のように語った。

「鈴木文史郎、日系人は大きな存在、米国の対日感情は良好」
1948年11月3日号

「去る18日シアトルから帰朝したリーダー・ダイジェスト社日本語版編集長、鈴木文史郎氏は20日、羽田に安着、東京都世田谷区北沢の自宅にくつろいだが、往訪の記者に左の如く語った。『米国の対日感情は三年前まで日本と戦ってゐた国だとは全く思へぬほど好転してゐる。(中略)
なんといっても在米30万の日系人の存在は大したもので、将来の日米関係には従来よりも大きな役割を演ずることであらうと思はれる。殊に20万に上る二世は政治的にも今までより以上に有効なる動きをするであらう。又この20万の二世は日本としても重視すべき一大存在であると思ふ』

さまざまな分野での二世の活躍

『北米報知』1946年10月9日号「大学講師となった細川ロバート君」

① 大学

「大学講師となった細川ロバート君」1946年10月9日号

「多年シアトル市にて土地家屋売買周旋業を営む細川節吾氏次男ロバート君は、今回ミネソタ州ウイノナ・テイチャーズ大学に招聘しょうへい せられ、英文学及び新聞学の講座を受け持つことゝなった。ロバート君はワシントン州立ホイットマン大学卒業後ウイスコンシン大学にてマスターの学位を得た前途有望の青年であるが、ホイットマン大学在校中は学生会々長をつとめ、白人間に人気があった。1942年ミネドカ入所後はエレゲーター紙に健筆けんぴつ をふる ひ、翌43年ミゾリー州へ転住、其週刊誌に執筆、日系人のために大に気を吐くところあった」

「門山満君の栄誉、大学首席卒業、奨学資金獲得」1948年6月23日号

「イリノイ州ネーバーヒルのノースセントラル大学に勉学中の門山満君は、今回同校を首席卒業したが、過去三か年連続の最優秀生として表彰せられて金25ドルの賞金を受け、更にイリノイ州立大学より奨学資金700ドル免除と月謝及書籍代200ドル免除の特典にあづかった。同君は島根県立松江中学を中途退学、戦前帰米、ミネドカキャンプより東部へ転住同校へ入学したものである。因みに同君の父は戦前シアトル市にてグロサリー業を経営せし門山堅固氏である」

「江頭孝範君の栄誉 奨学金を授与されハーバード大学へ」
1949年6月14日号

「ジャクソン洋食店主江頭莊一氏令息孝範君は、今回エジソン職業学校を優秀なる成績を以て卒業し、ハーバード大学から奨学金を授与され、来る九月の新学期から同校に於て医学を専攻することゝなった。右につきシアトル市ハーバード倶楽部の発表する処によると、この奨学金を授与されるものは全国48州から選抜された優秀生1150名の中から更に厳選されるのであるが、西北部からこの栄誉を勝ち得たものは7名で、孝範君はその中の一人に数へられてゐる」

「シアトル市生まれの二世、初の工学博士、研究17年の南氏」
1950年5月2日号

「初の二世工学博士が生れた。話題の二世はシアトル出身の早稲田大学工学部建築科ジョン・カズオ・南助教授(43歳)でマサチューセッツ工科大学大学院土木科を1932年に卒業、33年から早稲田大学で研究をつづけ、高層ビルの土台にあたらしい工夫をこらし学位論文がパスしたもの、同助教授は東京における数々の高層ビルの建築に携っており評判となっている」

② 音楽界

「晴れの舞台にデビューする向井満里子嬢」1947年2月26日号

「23日シアトル市のサンデー・タイムス紙は、シアトル市が生んだコロラチュア・ソプラノの名歌手として全米楽壇に有名な存在となった向井満里子嬢が、愈々来る3月16日夜、ニューヨークタウンホールの大コンサートに初の出演をすることゝなった。シアトル出身者で、ニューヨークのタウン・ホールのひのき 舞台に出演するものは、恐らく同嬢が初めてであらう。(中略)
今回向井満里子嬢がニューヨークタウン・ホールの檜舞台へ初出演することを伝へ聞いたシアトル市白人音楽界及教会関係の人々は、この演奏会を成功させたい念願から寄付金を集め、一枚でも多くの入場チケットを買ひニューヨーク病院で療養中の不具軍人に送り、演奏会に出席させてやりたいと既に募集委員会を組織したさうである。同委員会の顔触れの中にはシアトル市長並びに市内有力者の名が挙げられてゐる」

『北米報知』1948年12月20日号「絶賛の二世歌姫夫君との再会を華ね、1月上旬渡日の予定」

「絶賛の二世歌姫、夫君との再会を兼ね、1月上旬渡日の予定」
1948年12月20日号

「最近米国楽団にめきめきと売出してきたコロラチュラ・ソプラノの二世歌姫向井満里子さんは、進駐軍二世将校夫人として渡日、日本楽団で歌いまくろうという希望と、昨年9月結婚間もなく日本に再赴任した夫君―テキサス出身の陸軍中尉安藤友美氏―との再会という喜びの二重奏に胸おどらせながら、一月初旬シアトルから渡日すべく、いま両親の許に滞在中である。ミス・マリコ・ムカイはシアトル市ニューセントラル・ホテル主和歌山県人向井清三郎の長女でワシントン大学在学中にコロラチュラ・ソプラノの歌手として初登場。1941年からニューヨークの有名なジュリアード音楽学校に四年間特待生として学び、卒業後ニューヨークはじめ各都市で二十数回の独唱会を開いたが、昨年四月ニューヨークのタウンホールに於ける独唱会では、絶賛を博して一躍音楽界に存在を認められるやうになった」

③ 学校教師

上記掲載記事で取り上げられた二世の歌姫向井満里子氏の妹、向井リリー氏が、学校教師になったことに関しての記事があった。

「向井リリー嬢学校教師に任命さる」1950年5月18日号

「過ぐる日シアトル市の勝呂クレア嬢が公立学校教師に任命され、日系人のために気を吐いた矢先、ワシントン大学出身の向井リリー嬢(26歳)がシアトル学務委員会の推薦で秋学期からブライーン小学校の教師として教鞭をとることゝなった。向井リリー嬢はシアトル市南18街515居住、向井清三郎氏の次女で音楽家向井満里子夫人の令妹に当る。尚さきに公立学校教師に任命された勝呂クレア嬢(31歳)は目下ペリー・ゲザート小学校で教鞭をとっている」

④ 医学

「日系二世女医」1948年6月21日号

「海野和子嬢(スポーケン市郊外農業、海野絹太氏令嬢)は今回フィラデルフィア女医大学を優等な成績で卒業、医学士号を得て直に、ピッツバーグの病院へ就職、勉学中は年々奨学金の獲得者として日系二世女性の大なる誇りなり」

⑤ ボーイステート

『北米報知』1949年5月11日号「大利安男君の栄誉、選ばれてボーイステートへ」

「大利安男君の栄誉、選ばれてボーイステートへ」1949年5月11日号

「アメリカン・リージョン主催のエバグリーン・ボーイステートは来る6月16日 から25日までワシントン州エレンスパークのセントラル・ワシントン・カレッジのキャンパスで開催されるが、シアトル二世帰還兵委員会では大利安男(17)君を出席せしむることゝなったと委員長説田チャード君は発表した。ボーイ・ステートは米国の国体に副って市民として建設的な態度を持たせるやう指導教育するのが目的であって、二世帰還兵委員会では資格、学問、性格などについて慎重に人選中であったのである。大利安男君はスタンレーアパート経営者大利実男氏夫妻の令息でベリゲザート及びハント小学校を卒業後ワシントン・ジュニア・ハイを経て現在はガーフィルド高校の三年生であるが、最近は同校のボーイスクラブ書記兼会計に選ばれ、且つ優等生である。この外同君はツールブ53ボーイスカウトのパトロール・リーダーであり、長老教会バスケット・ボール・チームなど色々な方面にも活動してゐる」

「ボーイステート」とは、アメリカで毎年行われている高校生のためのワークショップのこと。

⑥ 新職業―競馬場―

「新職業へ二世進出」1949年9月16日号

「千原績君息テリー君は、シアトル大学の学生であるが、夏期中学校の推薦でロングエーカー競馬場で馬の検査をやっていたが、技術を認められ、今度スポケーン競馬場に11月の開校まで勤務することゝなった。二世でこうした方面に職を求めて行くということは何としても喜ばしいことである」

『北米報知』1949年9月29日号「二世を政府官吏に、連邦住宅管理局から推薦方反差委員会へ依頼」

⑦ 政府官吏

「二世を政府官吏に、連邦住宅管理局から推薦方、反差委員会(差別撤廃委員会)へ依頼」1949年9月29日号

「連邦住宅管理局は今回所謂いわゆる 少数民族のグループから事務又は行政手腕があるものを採用する方針を採るに至ったので、日系市民で住宅管理局に就職希望の人を推薦するようにワシントン州反差委員会へ通告して来た。それに関して連邦住宅管理局人種関係課長フランクリン・ソン氏は、今回少数民族のグループに職を与える事によって、今迄種々生じた住宅問題に関わる差別待遇等も自ら解消するであらうと語った」

⑧ 写真館

「ノビ狩野君が写真館開業、最新式の技術と写場」1950年7月7日号

「狩野信義君は今回『カノ―写真館』をシアトル市第16街422(キング街角)に開館、一般の撮影業務に応ずることになった。狩野君は通称ノビとして知られ、ノースウエストシアトル写真学校を卒業後、西北部超一流といわれるウオルター写真館その他ペニー、マクドガル両デパート写真部、レントンのキンネパルレ写真館の結婚式写真の下うけおいなどしながら、研究と経験をつんでいたもので天然色写真技術は同業者間の注目の的となっているといわれるほどである。写真館は最新式装置で、一般の撮影に応じているが、同項広告切抜持参の時は開館記念として今月中は時価の半額で大奉仕している」

『北米報知』1950年7月7日号「広告、カノ―写真館」

表記の広告(上記)には割引券を北米報知社、狩野の所で販売とあり、狩野信義君は、戦前の北米時事社、戦後の北米報知社の編集者として活躍した狩野輝光氏の御子息と推測される。

二世の就職口

「再建途上のシアトル同胞」1950年1月1日号

「就職面では戦前あまり見なかったものを見れば、郵便局、シビル・サービス(政府官庁、公務員)方面に二世多く、一世はビルディング・サービスに多く、オリンピック・ホテル(50名)、ニューワシントン・ホテル(25名)、プロピデンス病院(40名)、メトロ建設会社系(15名)、 オリムピック鉄工場(10名、一時は50名)ボーイング飛行機製造所(一時100名、現在減少)、シアトル・タコマ国際空港へ二世8名就職してゐるのも特異である」

「二世の就職口増進に市協乗出す」1950年2月17日号

「市協反差委員会は地方の市協支部と協力して連邦雇傭局と連絡を採り二世の就職口増進に乗り出すことになり、都市、地方に於ける二世の就職状態に就いて調査することになった。該プログラムは市協と連邦雇用者側との了解の下に血族、信條、皮膚の色等による差別待遇を除去して二世の就職口を増進せんと企画するものである」

在日二世問題

戦前にアメリカに住んでいた二世は戦後、両親に連れられ日本へ帰国するケースが多くあった。このように在日二世となった人の多くはアメリカと日本の両方の国籍を持つ二重国籍者で、日米戦争という悲劇の中、非常に難しい立場に置かれていた。文献によると1940年にアメリカ在住の二世の人口は約20万人、1938年頃の在日(日本在住)二世人口は約4万人だった。

在日二世の市民権回復

「民権を喪失した在日二世の市民権を回復せしめよ
反差委員会から政府に要請」1950年1月12日号

「本日市協反差委員会は日本在中選挙に関係して、米国市民権を喪失した二世の市民権回復の可能性があるか否か調査する旨発表し、それに関してマイク正岡氏は左の如く意見を発表した。『日本在中の二世が米国市民権を喪失した事情はイタリア系米人がイタリアに於て強制的に選挙させられた結果米国市民権を喪失したのと類似している。(中略)
下院は特別司法分科委員をイタリアに派し調査せしめた結果3、4千名の米人が選挙に関係して市民権を喪失している事が明らかにされた。日本の選挙に関係して市民権を失った二世の数は詳かでないが、戦争勃発と共に強制的に軍務、政府の仕事に従事させられて米国市民権を喪失した二世の数は相当にあると思う。そこで市協反差委員会は当問題を詳細調査してイタリア系米人に対する同じ手続きで市民権が回復されるように政府に要請するつもりでる』

『北米報知』1950年2月25日号「在京の二世の坂本君の寄稿で見直された二世たち、一部国民の悪感情も氷塊する」

在日二世の寄稿

「在京の二世坂本君の寄稿で見直された二世たち、
一部国民の悪感情も氷塊する」1950年2月25日号

「独伊両戦線で偉勲をたてた第442戦闘二世部隊をテーマにした映画は松竹によって企画準備がすすめられ、期待をもってむかえられているおりから、在京二世ローレン坂本氏は雑誌文芸春秋11月号に『日本の血とアメリカの心』と題し寄稿、有名雑誌における初の二世執筆という意味で注目を浴びるとともに、二世に対する日本人の同情融和の点で反響をよんでいる坂本氏の『日本の血とアメリカの心』は第442部隊の誕生と独伊両戦線における血戦記と、日本の敗戦後の二世としての微妙な感慨をのべているものである。統計をとって調査されたこともないので断言はできぬとしても、在日二世に対しては敗戦国民である日本人は一種のヒガミも手伝ってか、従来はあまり好感がもたれていなかった。場合によっては一般国民はなんとなしの悪感情すらもつことが多いといわれている矢先だけに坂本氏の投じた一石は大きな波紋をえがいておる」

駐日二世の映画出演

「二世映画出演か、『二世部隊』に松竹熱望」1950年3月14日号

「松竹映画会社と田中絹代プロダクションとの提携による第一回作品である映画『日系市民の母』(既報の『二世部隊』を改題)の製作準備は着々とすゝめられているが映画の登場人物は二世を主とするところから、松竹は駐日二世部隊の出演協力を熱望、目下総司令部関係者に同部隊の出演交渉を行っている。もし松竹の熱望がいれられると日本映画はじまっていらいの現地部隊出演が実現することになり注目されている」

在日二世だった筆者の父、あたえ 

筆者の父、與は1914年シアトルで生まれ、アメリカと日本の両方の国籍を有する二重国籍者だった。1941年2月までシアトルでアラスカ鉄道の運転手として働いた。日米戦争の危機を察した日本の家族からの強い帰国要請があり、やむなく日本へ帰国。しかし大戦という悲劇に遭い、日本兵として出兵し、卑劣な虐めにあった。戦後は瀬戸内海の島の小学校教員になったものの、その力量を充分に発揮することのないまま、一生を終えた(詳細は筆者の旧連載「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル―」を参照) 。

以上の記事から分かるように、二世は幅広い分野で活躍していた。戦前の就職は非常に難しい状況だったが、戦後は二世の仕事ぶりが高く評価されるようになり、アメリカ国内において、戦前では見られなかった新しい職種で二世が活躍していたことが伺える。

次回は日系人社会で活躍した一世の記事についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

■ 在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年
■ 『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。