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第五回 與右衛門とアキの理髪業〜シアトル移民日本人による理髪業とホテル発展の歴史

シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業
発展の歴史

By 新舛しんます 育雄いくお

初めに 

1900年の初め頃、多くの日本人が一稼ぎするために海を渡りシアトルへ向った。シアトルという地で日本人が挑戦し、大成功を収めたビジネスの中に理髪業とホテル業があった。
日本人によるこの二つのビジネスの水準はいずれも白人社会を驚嘆させる、非常に優れたものだった。 日本人経営の理髪店は夫婦共稼ぎの仕組みが多く、中流階級の白人たちに大変な好評を収めることができた。また日本人が経営したホテル業はシアトルの大型ホテルを次々と手中にし、白人経営のホテルを圧倒した。
本連載は、日本人が大成功を収めた理髪業とホテル業の歴史についての概要を題材とする。また、この二つのビジネスに挑戦した一人である筆者の祖父の新舛與右衛門についても取り上げる。 本連載を通して当時日本人がアメリカという異国の地で、どのようにして理髪業やホテル業を成功させたのかをさまざまな角度からお伝えしたい。
本稿は筆者が卒業した日本大学通信教育部史学専攻での卒業論文「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」を基に、北米報知での連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」と「『北米時事』から見るシアトル日系人の歴史」を参考に作成を試みたものである。

第五回 與右衛門とアキの理髪業

蒲井から渡米した多くの日本人達が最初に就く仕事はレストランやホテルの皿洗いで、與右衛門もまた同様だった。手持ちの金がなく、英語が全くできず、技術がなくてもできる仕事だ。朝早くから夜遅くまで立ったままで辛抱強く働きさえすれば、何とか最低限の生活をするだけの金は稼ぐことができた。與右衛門は、その後に少ない資金で養豚業も手掛けた。とにかく稼げる仕事なら、なりふり構わず何でもやった。

そんな中で、與右衛門に転機が訪れる。ある人物に助けられ、1909年から新しい仕事として理髪業を始めることになったのだ。その人物は、同じ山口県で與右衛門が生まれた長島の隣の島、大島出身の伊東忠三郎だった。伊東はシアトル日本人会の会長や山口県人会の会長を歴任する、いわばシアトル日本人コミュニティーのリーダー格の人物だった。伊東は、與右衛門が理髪業を始めるために必要なトレーニングや経営手法などを授けた。與右衛門の長女のサヱ子叔母は、「大島に親切な人がいて、與右衛門を助けてくれた」と言っていた。

伊東は、同郷の山口県出身者を優先的に援助した。その結果、シアトルでの理髪店の多くは山口県出身者で占められることになった。本稿第一回で述べた通り理髪業者の出身地は山口県が一番多く、福岡県、広島県が後に続いていた。当時は同県意識、同郷意識が非常に強い時代だった。

理髪業開業

『米国西北部日本移民史』によると、與右衛門は蒲井出身の従弟である吉田龍之輔と一緒に1909年に理髪店をシアトルで開業した。北米時事社の『北米年鑑』1913年版に、この理髪店は「163Washington St; L 807」にあったと記録されている。また、外務省資料にこの理髪店の売上げが1914年に6000ドル(現在の日本円ではおよそ1200万円)あったという記録も残されていた。なお、吉田龍之輔は、1972年に『ジム・吉田の二つの祖国』を出版し、二重国籍を持つ自身の戦争体験を綴ったジム・ヨシダの父親である。

理髪業者リスト

夫婦共稼ぎの理髪業

與右衛門の理髪店は、一家が暮していたニューセントラル・ホテルから徒歩15分ほどのワシントン街163にあった。ホテルと理髪店との位置関係は、伊藤一男『北米百年桜』にある日本人町の詳細地図から確認できた。

アキはシアトルへ来るとさっそく理髪師になるためのトレーニングを受け、持ち前の器用さで、すぐに一流の理髪師になることができた。與右衛門とアキの夫婦二人の理髪店経営が始まった。(以下写真参照)

アキ理髪店の前で次女と

本稿第一回で述べたように、シアトルの日本人理髪店のお客の多くは、日本人ではなく中流階級の白人層であった。叔母は、理髪店の様子を次のように語ってくれた。「理髪店は地下にあったが、照明が明るかった。一日に十人以上の白人の常連客が毎日髭剃りにきてくれた。英語は全くできなかったが、店は繁盛した。両親は朝早くから夜遅くまで猛烈に働いていた。両親の働きぶりはすごかった」

シアトルからワラワラへ

1924年5月に長男の與を故郷から呼び戻した與右衛門は、しばらくシアトルで生活した後、同年夏頃に郊外のワラワラ市に転居した。

ワラワラ市の一戸建ての前で1924年9月頃「楽しい我が家を背景に」とキャプションに書いてある写真があった。(以下写真参照)

シアトルでは狭いホテル暮らしであったため、転居を決断したのは、家族でゆったり住めるマイホームを持ちたいと思ったからだった。ワシントン州東部のワラワラなら、シアトルからは少し離れるが、マイホームを持つことができたようだ。

豪華絢爛ごうかけんらん理髪店の開業

與右衛門は、シアトルで理髪店を始めたころに、ある人に連れられて白人経営の理髪店を見に行ったことがあった。その時、與右衛門は入る店を間違えたかと思った。広い宮殿のような店内には、豪華な椅子がおかれ、理髪用の椅子は王様が座る椅子のようにきらびやかであった。その光景は與右衛門の頭にこびりつき、いつか與右衛門自身も白人経営のような豪華な理髪店を持ちたいと夢みるようになった。

シアトルの繁華街では家賃も高く、とてもこの夢は果たせそうになかったが、ワラワラへ移った與右衛門は、夢の実現を考えた。シアトルは人口も多く、日本人経営の理髪店も多い。それに対し、ワラワラは全体の人口こそ少ないが、日本人経営の理髪店はまだ1軒もなかった。與右衛門は、ワラワラにいる白人全体を受け入れられるような理髪店を作りたいと考えた。そしてそのためには、全ての白人に好まれるような、大きくて立派な理髪店にすることが必要不可欠だと考えた。與右衛門はワラワラで理髪店ができそうな所を探し、ここならいけるというところを見極め、夢に描いてきた理髪店の建設にとりかかった。

本稿第一回で紹介したように1916年の『大北日報』によると、理髪店を開業するための資金はシアトル日本人理髪店の平均で590ドル。こうした理髪店のほとんどは夫婦で営む簡素な店舗で、理髪椅子二つが主な構成であった。最大規模の理髪店になると1200から1300ドル要したと記述されている。

與右衛門は、これらを上回る資金をかけて、白人理髪店をも超えるような豪華な店舗を造り上げた。シアトル日本町の暗い地下にあった簡素な理髪店とは全く規模が違う。きらびやかな内装が施され、壁には有名芸能人らしき写真も貼られ、光沢のある立派な椅子がいくつも置かれた、広く豪華な理髪店が完成した。新たな雇人も抱えた。(以下写真参照)

結果、この理髪店は大繁盛した。日本人はもちろん、ワラワラに住む多くの白人客が集まるようになった。ワラワラにはまだ理髪店が少なかったこともあり、シアトルで経営していた店以上に栄えた。白人客も、立派な椅子や内装、アキの器用な手さばきに大満足し、ワラワラではちょっとした有名店になった。

この豪華な理髪店での、1924年頃撮影されたとみられるアキと與と写る家族写真が残されている。写真の與右衛門は笑顔ではつらつとし、アキと與もとてもうれしそうな表情をしている。大きな目標を達成した満足感が伝わってくる。

與右衛門の理髪業の成功は、一日中立ちっぱなしの仕事に堪えられる田舎育ちの辛抱強さと、アキの内助の功に支えられた、二人三脚での経営によって実現した。

與右衛門の人物紹介の掲載 

與右衛門がワラワラで新しい理髪店を経営していた絶頂期の頃の様子が、1929年7月に大北日報社から1200ページにおよぶ日本移民史と

して発行された、『米国西北部日本移民史』の中の「米国西北部在留邦人名鑑」に掲載されている。(新舛與右衛門が新桝與衛門、アキがアキ子に誤植。)

「氏は1903年渡米し、1909年シアトル市に於て理髪業を経営したが、1922年帰朝して同年再渡米し、後ワラワラ市に転じ理髪店を購入し、現在迄熱心に営業して居る。夫人アキとの間に一男二女を儲け家庭は円満である」(以下写真参照)

蒲井の田舎から裸一貫でシアトルに渡った與右衛門にとって、当時を代表する移民史への掲載は大変栄誉なことだった。

しかし、この本が出版されたことは、與右衛門は知りえなかった。

與右衛門は、理髪業の頂点を極めるまで進み、大きな目標の一つを達成することができた。與右衛門はその後ホテル業を手掛けたが、本が発行される約7カ月前の1928年12月、開業直前に不慮の事故で死亡した。筆者の祖母アキは與右衛門の遺骨をかかえ帰国した。

アキの理髪業の再開

アキは1931年1月にシアトルへ再渡航した。そしてシアトルで與右衛門と長年やった理髪業をもう一度やろうと考えた。

與右衛門と一緒に始めた地下にある理髪店からそう遠くない所に、簡素ではあるが小ぎれいな理髪店を見つけ、そこで開業した『北米年鑑』1936年版に、1935年の統計資料として、理髪業を経営する日本人39名の名前と住所が掲載されている。

この理髪業名簿を見て気づいたのは、39名のうち女性経営者が16人おり、全体の41%を占めていたことだ。『北米年鑑』によると、シアトルには1935年当時、日本生まれの女性が1200人近くいた。そのうち、アキのように夫と死別した女性は100人ほどで、理髪業を単独でやっている女性はアキと同じような境遇の人も多くいたようだ。

與右衛門とアキが二人で経営していた1916年頃は、ほかの日本人理髪店でも、女性はあくまで男性のパートナーであった。しかし1935年頃には、シアトルでは日本人女性の理髪技術の評価が定着し、店の経営を女性一人でできる環境ができていた。シアトル日本人理髪店は、このように先駆的な女性活躍社会が実現した場であった。アキも、たくましい女性経営者の一人だった。

その当時にアキが使っていたバリカンが、蒲井の家に残っていた(以下写真参照)。再びシアトルで働くことで、與右衛門を失った悲しみがアキの心から徐々に薄らいでいった。

アキの使用していたバリカン

本稿は筆者の連載「新舛與右衛門—シアトルに生きた祖父—」第二回「シアトルでの最初の仕事と生活」、第三回「結婚と家族」、第五回「絶頂期の理髪業」および第十一回「アキの奮闘と姉妹の再渡航」を加筆修正したものです。

※記事からの抜粋は旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

◼『北米年鑑』北米時事社、1913、1936年版

◼竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年

◼伊藤一男『北米百年桜』日貿出帆、1969年

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門—祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」、2023年9月から2025年2月まで「初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史」、2025年3月から2026年2月まで、「二世新舛與の生涯」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。