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第7回 立退損害賠償問題〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第7回  立退損害賠償問題

前回はシアトル日系人の故国難民救済活動についてお伝えしたが、今回は立退損害賠償問題に関する記事についてお伝えしたい。

アメリカに住む日系人は日米戦争により、慣れ親しんだ西北部沿岸地域からの立退きを余儀なくされた。この期間の精神的、経済的損失は莫大なものであった。この経済的損失についての賠償要求をアメリカ政府に対して行うことは、大きな課題となった。


立退損害賠償問題とは

『北米報知』1946 年11月27 日号「立退者に対する経済的損失調査」

「経済的損失調査」1946年11月27日号

「太平洋沿岸立退者に対する経済的損失調査書が南カリフォルニア州民権保護協会によって作成された」

この調査書には、立退きに起因する日系人ビジネスの経済的損失、家具類などの財産に対する損失等がいくらあったかが具体的に記載された。

「時の問題、立退損害賠償問題」1947年6月18日号

「在米同胞全体の問題として吾等が最も関心を持たねばならぬことは、目下米国議会で論議されてゐる市民権獲得問題と立退損害賠償問題である」

立退損害賠償問題

「軍部の立退強制命令により太平洋沿岸に在留する十余万の同胞がこうむ れる抱く精神的、経済的の損害に対する要求であるが、全米市民協会では第一次世界大戦後ドイツ人に損害の賠償せる前例を楯にとって世論を喚起し、昨年この要求を議会に提出したのである。当時カリフォルニア州選出下院議員エンゲルの反対によって揉み消されたのであるが、本議会に再びこの法案を提出し、ガイン議員を委員長とする下院公聴会開催といふことになってゐる。米国憲法の定むるところによれば『血族の如何を問はず政府の行動によって生じたる総べての損害に対しては政府は之が賠償の責任を有す』とあるが、これは一二世も同権である。併しながら、民主主義の国是こくぜ の上に立つ米国としては、政府より進んで賠償するやうなことはない。被害者より進んで正規の手続による正当なる要求に対してのみ賠償されるのである」

議会での審議の様子

『北米報知』1947 年7 月9 日号「愈々議会に上程された立退き損害賠償法案」

「愈々議会に上程された立退損害賠償修正案」1947年7月9日号

「立退損害賠償修正案HR3999は法案252となって愈々7月7日議会に上程されたが、今議会に提出された4000以上の法案中372番である。該案は議会に上程されるに当り、アイオワ州共和党グワイン議員が主任となって取扱はれるが、同氏は帰化分科会の議長で、該案の支持者である。(中略)
修正案では第一に検事総長によって処理されることゝなった。即ち1941年12月7日以後ハワイ、アラスカ及び西部沿岸より立退きの結果損害を被った人々への賠償は検事総長によって取り扱はれる。(中略)
6月30日発表したグワイン議員の立退損害賠償案に関する報告書は立退き当時に於ける日系人の行動を評して曰く『沿岸軍事地区から立退きを強要された日系人はその行程中、殆ど例外なく米国に忠誠を示し、秩序正しく行程を遂行した。若し之等損傷を被った人達に対して何等かの賠償をせねば、米国主義生活を攻撃する充分の資材を外人に与えるであらう。而して賠償は正義の現はれである』(中略)
グワイン氏は今次戦争に従事した日系人の率は全米の率に比較して甚だ大きいと語った。賠償金額は見積一千万ドルである。此等は戦争中家財生命を失った幾百万の人々と同じ境遇であるといふよりは人種的偏見に対しての政府の行動からであると」

グワイン氏は日系人が立退きに対して忠実だったこと、また日系二世の多くがアメリカ兵として第二次欧州戦争に参加し、偉大な功績を挙げたことを高く評価した。

『北米報知』1948年5月4 日号「日系人戦時立退損害賠償公聴会、
愈々5月初旬開催決定」

「日系人戦時立退損害賠償公聴会、愈々5月初旬開催決定」1948年5月4日号

きに下院を通過、目下上院に保留となってゐる日系人戦時立退損害賠償案の公聴会は、五月初旬より開催されることに決定した旨、ワシントン州反差委員会から報告があった。右法案について上院司法委員会のジョージ・クーパー議長は、公聴会を三月に開催すべく再三議会に向って要求する処あったが、予想外に多数懸案の審議に多忙を極めたゝめと、戦災米国市民の救済案HR4044のために延期を余儀なくしたと云はれてゐる。ワシントン州反差委員会では本年の議会閉会前に是非この問題解決せんと上院の公聴会即時開催を希望し、大車輪の運動を続けてゐたが、該案が下院で認証されて以来、ワシントン州ポスト紙の支持論文やクリスチャン・レジスター紙に発表した正岡マイク君の論文がアレキサンダー・スミス上議員の要求によって議会の記録に記入され、事態は好転の曙光しょこう を見るに至ったのである」

正岡マイク氏は日系二世の中の最も著名な指導者として知られている人物。戦後差別撤廃委員会(反差委員会)の委員長に就任し、日系市民協会(Japanese American Citizens League :通称JACL)の代表として日系人の権利向上の為に活動を続けた。

「立退損害賠償案 愈々上院へ」1948年5月19日号

「昨年7月23日下院を通過して、目下上院に保留となってゐる日系人立退損害賠償案は議会閉会のため上院の審議を見ずして本議会に持ち越されてゐたが、去る16日ワシントン州の反差委員会が接受した情報によると愈々来る21日の上院司法委員会にて審議されることゝなった。今議会は来月中旬には閉会される予定なれば反差委員会の正岡マイク氏も是非今議会に於て該賠償案を立法化すべく必死の努力を払ってゐるが、此際各団体又は個人に呼び掛けレコメンデーションをクーバー委員長に提出する様要望してゐる。立退損害賠償案は今議会の前半期に於て既に下院を通過したものであるが、若し上院を通過せねば再び第一歩からやり直さねばならぬことゝなるので、是が非でも今議会に上院を通過させねばならぬとて反差委員会では躍起やっき となってゐる」

「チャップマン次官立退き賠償を支持」1948年5月21日号

「米国内務省次官オスカー・エル・チャップマン氏は日系人西部沿岸立退賠償法案の通過を支持し、21日上院委員会に於て左の如く強調した。『戦時中西部沿岸より立退を命ぜられた日系人の苦痛は大きい。彼等が日本人を祖先として生れたと云ふ不可避的原因以外に何等罪はないのである。彼等は米国に対する忠誠を證明する何等の機会をも与えられず家を捨て仕事を放棄して立退きを強要されたものである』

「日系人立退賠償法案は愈々司法員会へ」1948年6月11日号

「クーパー上院議員を議長とする分科委員会は日系人立退損害賠償案HR3999は愈々司法委員本会議に回送され右委員会では今週の内には該案の検討を行ふ予定であると反差委員会より報告があった。(中略)
クーバー議長はHR3999が順調に進行する事を信じて居る。若しこの法案が司法委員本会で證認さるれば愈々今年中に上院本会議に於て審議される充分の時日があると見て居る」

「立退賠償法案愈々上院本会議へ 」 1948年6月18日号

「日系人立退損害賠償案HR3999は、今議会閉会を目途に控えて尚上院司法委員会に停滞してゐたが、明日上院本会議に於て審議される運びとなった旨反差委員会より報告があった。(中略)
本年の議会は数日中に閉会されんとする折柄、該案の審議には一人の反対もなく無事通過するやう反差委員会では熱望してゐる」

立退損害賠償法案の議会通過

「立退損害賠償法案上院通過」1948年6月21日号

「 既に下院を通過して上院の掌中にあった立退損害賠償は本日午後1時半満場一致を以て上院を通過した旨反差委員会より報告した。該案は上院に於て多少の修正を加へられたが、其の趣旨には変化なく、単に損害要求の方法及び調整法其他専門的字句に於て修正された。其の重なるものは、転住所に滞在中の収入上の損害に対しては要求出来ぬ事である。該案は今一度下院に回附され修正部分の証認を得る必要があるが、恐らく下院に於ても賛成される事と予想して居る。併し万一非常な反対があった場合は恐らく、今年の収束とはならぬであらう」

『北米報知』1948 年6月21 日号「立退損害賠償法案上院通過、超スピードで下院も通過」

「超スピードで下院も通過」1948年6月21日号

「上院で専門的字句を修正された立退損害賠償案は本日午後4時15分下院本会議に上程再審議することとなったが、アイオワ州選出ダーウィン議員の動議により上院の修正案を討議に付することなくして承認、直ちに大統領に回付された」

「立退賠償案支払いの要求は法案発行後1年半以内」1948年6月28日号

「反差委員会の努力によって立退損害賠償法案(3999)がめでたく今議会を通過したことは既報の如くであるが、これは1942年軍部の命令によって立退かされた同胞が損害賠償として2500ドルまでの要求を提出し、その権利を検事総長に付与する法案であるが、予算額は1000万ドルで支払の要求は1カ年半以内に提出せねばならぬ。司法当局では11万に近い日系人の賠償支払を完成するには5年の日子にっし を要すると観てゐるが、多類の立退者は申請書類を紛失したり、厳格なる手続を要求されては損害費を受くるものは、甚だ少数であることを認めた結果、日系立退に関して事情に精通し、而も同情ある元司法省外人統制部長であったエドワード・エニス氏を法律顧問に推薦した。尚同氏推薦には反差委員会が司法省に嘆願した結果に基くものである」

立退損害賠償法案の大統領署名

「立退損害賠償法案、大統領遂に署名す、日系人への快ニュース」
1948年7月7日号

『北米報知』1948年7月7日号「立退損害賠償法案、大統領遂に署名す」

「閉会も押迫った6月19日第80議会を通過し、大統領へ送られた日系人立退損害賠償法案に対し、本日トルーマン大統領は署名した。該案は第二次世界大戦のために軍部により太平洋沿岸から強制立退を命ぜられた日系人の損害に対し賠償支払の可否権限を検事総長に付与するものであるが、この案の立法化によって1941年12月7日以後アリゾナ州、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、アラスカ及びハワイの軍事区域から立退いた日系人は、1941年12月7日以後合衆国より追放されたもの又は自発的に帰国したもの或は1941年12月7日当時米国に居住してゐなかったもの又は代理人を除き、商業、農業、住宅の放棄又は変更による損害の賠償を請求することが可能となった。尚本法は 施行日より18カ月以内に要求を提起せねばならぬが、要求額は2500ドルを超えざることを規定とし、それ以上の額の場合は議会の協賛を必要とすることゝなってゐる」

太平洋戦争の影響により、1948年時点では為替レートは決定してなかったが、1950年からの為替レート1ドル=365円からすると、2.500ドルはおよそ91万2500円となる。

立退損害賠償法案成立へのコメント

日本の内務官僚、政治家、教育者であり、戦前は警視総監、宮城県知事、武蔵野美術学校校長を歴任。戦後に在外同胞対策委員会事務総長を務めた丸山鶴吉まるやまつるきち氏から祝辞が来た。

『北米報知』1948 年6月30日号「在外同胞対策委員会事務総長丸山総長から日系人へ祝辞」

「在外同胞対策委員会事務総長丸山総長から日系人へ祝辞」
1948年6月30日号

「拝啓、予てより日本人各位が多大の関心をよせられた戦時立損害賠償法成立の報を得心からおよろこびの辞を申述べます。今回の法律の成立は日系人社会の再建に物心両面から測り知れない好影響を与へるものと確信し、各位の事業の確立のため最も有効にお使ひなることを希望いたします。本会は戦時中より在米日系人各位の安危に多大の関心を払ひ、慰問、連絡等尽力を致して来ました関係上、今回の措置に対しては一人感慨の深いものがあります。何卒一般日系人各位にこの祝辞をお伝へ下さる様お願申上げます。
敬具1948年6月20日 在外同胞対策委員会事務総長 丸山鶴吉 西北部日本難民救済会御中」

「鳥飼太郎 鶏鳴けいめい 録、吾等は明朗」1948年7月2日号

「沿岸同胞の過去は兎角とにかく 暗かった。強制立退から自由転出まで、重苦しい雰囲気の中、不安の生活を送らねばならなかった。幸いに正義を重んじ、責任を直感せる多数の米人は、吾等を正観し、その偏見態度を改めるに至ったのである。議会閉会間際に通過、白亜館(ホワイトハウス)に回附された立退賠償法案の如きは、民衆の対日系態度を最も明白にしたものである。しかも政府も支持、宗教団体初め諸団体も支持、首尾よく議会を通過したことは、一層の明るさを感じさせる。同法案は法律化によりて沿岸日系人はたとへ充分でなくとも、経済的復興を授けられ、同胞界の金融上相当の報ひを得ることであらうが、それよりも精神的に受ける影響は、けだし多大なものと思はれる。(中略)
立退賠償の如きは、日系人に対する同情と解するよりも、寧ろ米国の民衆が、その大なる愚談を率直に、且つ素早く是正する意志の表示として喜んで受け入れるべきものである。賠償は金額から言はば2500ドル限度であるが、米国人の表現した精神的贈物としては、殆ど無限の価値がある。この意味に於て吾等は頗る明朗」

日系人会顧問の奥田平次氏がペンネーム奥田遍理へんり の名前で次のようにコメントした。

「損害請願と市民権 奥田遍理」1948年12月22日号

「市民協会主催の立退損害賠償請願説明会は仏教会本堂に満員の盛況であった。二年前この運動の始められた時にこんなに早く法案が法化されるとは思はなかった計りでなく、或者は成功を危ぶみ、これは米国流の聲ばかり大きくとも実現は遂にお流れになるのではないかとさへ考へたのである。それも無理からぬことで、昔から在留日本人のやってきた政治運動は聲は大きかったが成功したことは殆どないと言って良い位であった。然るにこんどの仕事は条件が具備しておったこと、運動当事者が東奔西走の活動その宜しきを得た為めである。市民協会代表者が首府に本部を置き宗教団体、政治団体の注意をひき後援を求め、上下両院議員を説服せっぷくし、進んで大統領の了解まで得たのである。またこの運動に要した10万余ドルの資金は沿岸を始め中東部在留同胞がケチな考えを捨て進んで出金したるによるもので実に内外協力の結果に外ならぬ」

立退損害賠償の申請

「賠償金の支払いは来年の降誕祭頃か、請求手続きは頗る簡単」
1948年9月13日号

「全米市協大会の席上、反差委員会の特別顧問スミス氏は、立退損害賠償問題について司法局の見解に左の如き説明を行った。『立退損害賠償請求書式今月末までに発給され、来月から受付を開始することゝなるが、11月までには2000名位の請求提出を期待してゐる』

「立退損害賠償の申請書式配布は10月15日頃か」1948年10月4日号

「立退損害賠償申請書式の配布は10月初旬と予定されてゐたが、本日司法省より10月15日頃までは配布不可能なる旨反差委員会へ通知があった。マイク正岡氏が語る処によると、申請書式はハイスクール程度の人々にでも書き入れられる簡単なもので、転住局当時及びその後ポストンやマンザナー転住所内の生活のため被った損害要求をした例はあるが、未だ支払はれて居らぬ場合は立退損害要求書に加へ申請するやう司法省では注意してゐると。因みに転住所内火災損害の賠償に関して、反差委員会はその法律の実施に関して少なからず努力したとのことである」

『北米報知』1949年8月3日号「立退損害賠償請求調査開始、ロサンゼルス出張事務所で」

「立退損害賠償請求調査開始、ロサンゼルス出張事務所で」1949年8月3日号

「立退損害賠償の支払を促進するため今回司法省出張所がロサンゼルス市に設けられ、所長ウイリアム・ビコブ及び司法省賠償部長マンガム・ウイリアムの両氏が司法省よりの命令あり次第申請者の番号順により請求者の出頭を求め、賠償支払の便宜を計ることとなった。(中略)
ウイリアム氏が説明した立退損害賠償請求の要綱は次の如きものであった。

一、損害賠償請求は政府相手の事故賠償に研究し、公平なる請求をなすこと
二、請求の妥当性を証明する事項及び証書などは最大限度に列挙する必要あり
三、申請順により聴聞会が開かれるが、支払いは司法省許可後7、8カ月になる
四、2500ドルを超過する賠償の請求及複雑なる申請は後廻しとなる
五、農産物の予想収穫に対しては認める
六、出張所の調査事項はロサンゼルス司法省に送られるが、司法省の認可又は拒否が最後的なもので出張所ではこれを認可又は拒否する権限なし
七、聴聞会では弁護士のみが請求者の弁護に当ることが出来る
八、所有権(財産)又は後見人については州法が適用される」

「立退損害要求手続所、市協で無料奉仕」1949年8月5日号

「立退損害賠償要求は来年1月2日までに申請しなければ、当然受取ることのできる賠償も受取ることができなくなるが、その期間は5か月間となり、いまだ申請してゐない者も多数あるので、岡田俊雄氏を申請委員長として会員22名の役員をもって一般同胞の申請手続きを支援することになった。右委員会は数日に亘って準備した結果、愈々来る10日午後7時より仏教会食堂において申請者のため無料奉仕し、委員が総動員で手続を援助することになってゐる。10日を皮切りに開かれる無料手続所は8月12日、17日、19日、24日、26日午後7時から仏教会食堂で連続的に行なわれる」

本稿のシアトル日系人の立退損害賠償要求の結果は、金額的には充分なものではなかったが、日系人の帰化権獲得の第一歩として非常に意義の深いものとなった。

文献によると1948年の立退による経済的損失の賠償後、さらに1976年、米国市民の憲法上の権利を無視した米国政府の行為に対して補償を求めた。1988年にレーガン大統領は生存している日系の収容者約6万人にひとりあたり2万ドルの補償金を10年かけて支払うことに署名した。

次回は日系人の最重要問題のひとつである帰化権獲得問題の記事についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

■『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。