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東京右半分 3 「両国」

国技館は1985年に今の地、JR両国駅のすぐ北へ新しい建物を建てて移った。1万人以上を収容できて音響もよいので、相撲のないときには各種イベント会場として使われている。大相撲は東京では年に3回、2週間にわたって行われるが、マス席といわれる桟敷で観るためには3万8千円(4人分)の大枚をはたく必要がある。それでも、その価値はあるかもしれない。なにしろ、お相撲さんはすぐそばで見ると映像とはずいぶん印象が異なるのだ。

相撲好きなら、国技館に隣接する相撲博物館に立ち寄るのもよい。相撲博物館の隣には、電車の窓から見てぎょっとするような巨大なコンクートの建物がある。斬新なデザインの都立江戸東京博物館で、いろいろな特別展があるうえ、常設展もなかなかよい。たとえば「江戸からくり人形」など、からくり舞台を展示し、人形の使い方がわかるようにしてある。大名屋敷や長屋などの復元模型もよくできており、その名称が示すように、江戸から東京へのつながりがわかり、教育的でもある。入場料が無料になる日もあるから、興味があればウェブサイトをチェックしてほしい。

両国駅の北側には旧安田庭園がある。元禄年間に造られた潮入り回遊庭園で、安田財閥から東京市に寄付された。その北東の地つずきの場所が横綱町公園、そこに大きな慰霊堂がある。慰霊塔には5万8千人の遺骨が安置されているそうだが、春と秋に大法要がある。関東大震災のときの被害は特に大きかったのだが、隣接する復興記念館には、その被害状況や第二次世界大戦末期の東京大空襲に関連する資料が展示されていてる。

両国でも安田庭園や復興記念館のあるあたりは、ホテルや病院もあったりして、比較的ゆったりした空間が広がっている。反対に、駅の南側は細い道や路地が入り組んだ地域で、先の回向院のほかに時津風部屋などの「相撲部屋」がある。力士たちが親方と住み、また練習する場だ。見学できると聞いて探しまわり、そのひとつをやっと探し当ててみると、「部屋」は高層マンションのなかだった。この辺りを歩くと、ゆかた姿の力士をよく見かける。わたしは自転車に乗る力士とすれちがった。

「江戸」が「東京」になる時点で大活躍をした人物のひとりに勝海舟がいる。彼の生誕の地はこのあたりで、ごく小さい公園の中にその旨を記した碑がある。海舟はちゃきちゃきの江戸っ子だったが、幕臣としての彼の活躍とその生き様を抜きに、江戸東京の歴史を語ることはできないだろう。薩薩藩と長州の田舎兵士が江戸城下を火の海にすることを防いだのは彼の功、とする歴史家もいる。

江戸の生んだ世界的画家の葛飾北斎が生まれたのも本所だが、彼は終生ここ墨田区に住んだ。北斎は、長いあいだ日本より海外で名が知られていた。ジャポニズムの名のもと、彼や同時代人の歌川広重の画の影響を強く受けたのが、ゴッホやゴーガン、モネなどである。その頃の日本の輸出品だった陶磁器の包装紙にあった版画絵が、それらフランスの画家の関心を引いた。北斎の作品は幅が大きく、なかには「北斎漫画」と称されるスケッチもある。しかし、なんといっても後世に名を知らしめたのは「神奈川沖海裏」と題されるあの絵だろう。ドビュッシーがスコアの表紙に使ったそうだが、その意匠の独創性は、たしかに他に類をみない。

2016年にJR両国駅からすぐ近くに、待望の「北斎美術館」が開館した。墨田区の長年の計画がやっと実ったわけだが、1人の米国人コレクターの好意によるサポートもあったと聞く。ちなみに、そのコレクターとは、明治のはじめに来日して「大森貝塚」を発見したモースの縁者だとか。モースをはじめ、西欧の美術愛好家は北斎の異才を見逃さなかったわけで、ボストン美術館が北斎の作品のうちの相当数を所有している。隅田区は新設の小美術館に版画1800点を集めており、関係著書や研究書もそろっているという。

世界の美術史に痕跡をのこしている北斎は江戸日本が生んだ天才だが、彼は90歳をこえるまでの長い人生を絵に取りつかれて生きた。死の数年前になって、「あと10年生きられれば本物の絵が描けるのに」と、知人に言っていたという。ひとり娘も絵描きだったが、ふたりは常に貧乏で、そのためかどうか、引っ越しを繰り返したという。北斎は富士山を好んで描いた画家で、その「富岳三十六景」はたしかにすばらしい。が、そのほかにも墨田区のなかのいろいろな場所、たとえば東向島にある宝仙寺、隅田川に近い三囲神社、また旧安田庭園などを描いている。現在のそれらの場所は北斎の頃のままとは言えないが、足を運んでみるのも一興か。