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第11回 日系人の日米往来 〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第11回 日系人の日米往来 

前回は日系人社会で活躍した一世についてお伝えしたが、今回は戦後、故国を想う日系人の日本訪問時の様子と、戦前に日本を訪れた日系人が帰米する記事について紹介したい。


日系人の訪日願望

『北米報知』1946年12月18日
「あこがれの日本へ」

「あこがれの日本へ 」
1946年12月18日号

「船は東京行きの婦女子と朝鮮、横浜行の兵士を乗せて、シアトルのドッグに横着けになってゐた。午後5時半薄暗い中に両手で数へる位の見送人があった。間もなくポート、オブ、シアトルが暗闇の中にネオン・サインで夜の繁華な生活に転換してゐるのをビュー・ゼット・サウンドの海上から色々な感激をもって眺めてゐた。軍閥、財閥のあやま った羅針盤に乗せられて敗戦した日本―へそれは15年振りに見る、父母の日本、僕の少年時代を楽しく飛び廻って遊び興じた日本である。しかし例へ日本がどの様に変化してゐようとも、それは僕の在米15年と第二次世界大戦の結果であって、今更僕の期待を裏切るものではない。船が自分で進み出してからもう大分時間がたってゐた。そして僕は深い憧憬なるもの考へていた。淡い憧憬しょうけい …在米同胞の常に口にしてきた、そして今度も口にするであらう『何時かは日本へ………』といふ憧れの言葉である。そして最早もは や永遠にきたらないであらう『いつかは……』と云ふ淡い言葉である」

在米日系人の日本訪問規定

在米日系人の日本訪問については、滞在期間を始めとしたさまざまな規制が敷かれ、関係機関の許可が必要であるなど、非常に訪問が困難な状況にあった。また、再渡米に関しても同様に許可が必要であった。

「再入国許可証があっても日本訪問不可能」1948年12月24日号

「この頃移民局から再入国許可証が下附されるので在米日本人の一時帰国が許されるかを移民局に問合わせたところ記録のはっきりしたものには誰にでも再入国許可証を発給するが、再渡米を希望するものが上陸するには陸軍省の許可が必要であるため、陸軍省に照会したところ、12月8日付を以て同省から回答があった。それによると目下のところ貿易商人以外の日本人には一時的でも日本訪問を許可しないさうである。日系市民の場合は資格さへ具備すれば国外旅券を請願することが出来るといふことである。日系人一世は再入国許可書が下附されても陸軍省の許可がなければ、再入国が出来ないといふことが明らかになった訳である。尚日本へ帰りきりで再渡米を希望しない人は何時でも帰国でき、陸軍省の許可を必要としないことに変りはない」

「渡日する米国在住日系商人を差別するな 反差委員会から抗議」
1949年2月4日号

「反差委員会は商用で日本旅行中の米国在住日系人に対する差別待遇の除去を本日米当局に申入れた。右につき正岡マイク氏は語る。『日本へ商用で旅行する日系人は、米国25年以上も居住し、単に商用のため日本に行き、要務の終り次第米国へ帰ってくる商人である。しかるにすべての日系商人は軍部より日本在住の日本人と同様に取扱はれ、他の商人が日本旅行中受ける権利を付与されていない。例へば日系商人は日本で進駐軍経営の店から物品を購入することが禁ぜられてゐるので、自動車の購入、運転が許可されず、従ってガソリンの支給も受けることが出来ない。更に確定した宿泊所又は旅行中の特権が阻まれてゐる』反差委員会ではかくの如き差別待遇は即時除去されたいとの抗議文を陸軍省民生部及び商務省内外商務局並に日本進駐民生部に発送した」

「日本入国自由、滞在期間2カ月、15日陸軍省発表」1949年2月16日号

『北米報知』1946年2月16日「日本入国自由、滞在期間2カ月、15日陸軍省発表」

「去る11日東京進駐総司令部では個人的理由による在米日系人の故国訪問を許可する旨発表したが、更に陸軍省でも15日に至って正式に発表したので、今後は日系人も自由に日本行きが可能となった訳である。新規定によると在米日系人は在日の家族又は親戚訪問、其他個人的理由により、日本入国が許される訳であるが、滞在期間は二ヶ月で各自消費する食料の携帯又は進駐軍運営の海外売店に於て食料を購入し得る準備、宿泊についても各自が適当なる措置を講じ、如何なる場合でも進駐軍に迷惑をかけないといふことなどが要求されてゐるが、詳細については判明次第報道する」

「最高司令部が発表した故国訪問旅行規定」1949年2月18日

去る2月11日東京連合軍最高司令部は個人的理由による在米日系人の故国訪問を許可したことは、既報の如くであるが、在外同胞対策委員会より本社宛、左の如く通知してきた。

一、資格 日本に近親が居り、この近親者が滞在を認めたものに限る。
二、滞在期間 如何なる理由あるも、延長は認めない。
三、食料 携帯の場合は60日につき300封度、不携帯の場合は15日につき50ドルの食糧パッケージ
を外国人指定店で買い入れる。
四、ドルの交換 30日につき最低50ドルを公定率で円に換えなければならない。
五、行為の制限 滞在中商用行為を禁止、又結婚其他親族法上の行為があっても、其相手の帰米等は
米国法律の定むるところによる。(日系人の場合は認められない。)
六、 訪日許可手順 
A 先ず在日本の連合軍最高司令部に願書を提出し、許可を受ける。
B 右の許可を総司令部から受けたら米国側のミリタリーパーミットを受けねばならない。
第二世が25日以内の旅行なら米国の旅行券だけで、右の手続きは必要でない。
C 観光団等の場合でもこの手続は個別に出すこと。
七、訪日と観光との関係 観光はしてもしなくともよい。  以上

1949年2月13日 東京都千代田区丸ビル767号 在外同胞対策委員会」

「訪日滞在期間、更に60日延長」1949年8月3日号

「在米日系人の故国訪問はこれまで60日間に限られていたが、今回更に60日間の滞在が許可されることゝなった旨総司令部から発表された。この60日間滞在の延長は必ずしも最初から4ケ月間の条件で許されるものでなく必要に応じて60日間の日本滞在中、更に60日間延期が許されるもので、延長願いはすべて日本交通公社が取り扱ってくれるさうである」

日系人の訪日を期待する日本

「祖国へ観光団、羅府から25名」1949年3月3日号

「在米日本人の観光団が春の祖国を訪れる。一昨年の夏バイヤーとして来日したロサンゼルス市の石川武塚氏からこのほど新宿区の早大教授大山郁夫氏のもとに、ロサンゼルスにいる日本人に観光を通じて正しい日本の復興の姿を見せたいとの音信があった。手続きの要旨は『第1回の日本実業視察団として25名が、3月上旬ロサンゼルスを出発、日本へ向う。観光は10日間で、50日間は自由行動とする』とあり、同氏はロサンゼルスで著名な都ホテルを経営、日本、ロサンゼルス観光親善を図ったもの」

「ドルを待つ日本の観光、一、二世の近親者訪問に期待」1949年9月19日号

『北米報知』1949年9月19日「ドルを待つ日本の観光、
一、二世の近親者訪問に期待」

「本年度3万名の訪日客の誘致と立案し、たんとドルをおとしてもらおうと目ろんでいたところ、本年1月から6月までに6千名のお客しか来日せず、しかもこのうち約半数が一時上陸者で、日本がそのドルをあて込んだ長期旅行者はたった一人という淋しさで目算ちがいとなったものである。そこで外貨獲得にはもっぱら長期滞在の近親者訪問で故国を訪れる一、二世諸氏に多大の期待がかけられている」

「桜咲く母国へ一、二世続々と来訪、昨年の6倍受入準備進む」
1950年3月4日号

「3月の声をきくと、サクラの固いつぼみがふくらみはじめ、やがて九州から次第に北に向ってサクラはわが世の春を賑うわけだが、この一年中でもっともよい季節めがけて、アメリカから続々と一世、二世が訪れることになっており、当地の新聞は『さくら咲く日本へ米国から続々と観光団来る』などと大歓迎の記事をかかげており、日本交通公社は準備に忙殺される一方国内でおとすドルに期待をよせている。観光団の第一陣はハワイ一世約800名で、二世約20名も同行、3月10日ゼネラル・ゴードン号で120名、4月6日プレジデント・リーグランド号で210名、4月20日ゼネラル・ゴードン号で450名、4月25日プレジデント・ウイルソン号で30名がそれぞれわかれて訪問する。(中略)
昨年の観光客350名に比べると、ハワイからの他にも来日するので、今春は約2千名に達すると目ろまれている」

日本への郵便

「緩和された日本郵便」1947年2月19日号

「全米市民協会の発表によれば、1946年9月にハガキの往復が許可され、小包、封書、電報等もオーケーとなり、次々に故国との通信が容易になってきたが、去る1月31日の日附で郵便指令により日本への郵便物に就き総括的な規制が発表された。大体に於て1月2日発表の規則と同様で、日本への往復葉書を発送し得ること、普通封書は6封度(ポンド)6オンスを限度とする。小包郵便は11封度を限度とし、書留、保険小包は受け付けぬ、取引なしの商業通信で実情報告の程度はいゝが、商業取引は許されない。小切手、債権、通貨、財務書類は往復禁止だが、出生証、死亡、結婚、遺言等の書類は送っても規則違反ではないことが記載されてゐる。1月31日の指令によれば、日本4大島(北海道、四国、本土、九州)以外の島へも郵便の途が開かれたことは注目に値するが、千島列島、北緯30度以北の薩南諸島等へは郵便は送れても、鹿児島県の奄美群島や沖縄本島及び台湾には郵便施設の都合で未だ通信が出来ないことゝなってゐる」

「日本行便船」1948年5月26日号

『北米報知』1948年5月26日号「日本行便船」

「シアトルから日本へ行く軍用船に郵便物を積んでゆくが、25日発表されたニュースケジュールは左の如くでターミナル局での郵便物小包の〆切は前日までとなってゐる。ワシントン・メール号 6月2日、ゼ・アール・トウール号 6月9日、エッチ・ビー・フリーマン号 6月14日、インデア・メール号 6月24日、ホーデス号 6月24日」

郷里送金

在米一世にとって、アメリカで稼いだ給料を日本の郷里へ送金することは戦後も引き続き第一義であった。

「郷里送金」1948年12月1日号

「今回シアトル第一ナショナル銀行ジャクソン街の国際支店では同胞の郷里送金を取り扱ふことゝなったが、現在の換算率は米価 1ドルに対し日貨270円である。詳細は同支店に問合せられたいと」

「広告、日本送金取扱」1948年12月3日号

「安手数料で日本へ1千ドルまでの金を電報又は飛行機でお送りいたします。故郷送金は今が絶好の機会です―当行は皆様が御満足なさるやうな送金事務をお取扱致します。
INTERNATIONAL BRANCH 」

「在米一世の為替送金、5カ月間で39万ドル」1950年5月26日号

「日米間の郵便為替業務が再開されてから早や5ケ月、郵政省の調査によると5月15日現在でアメリカから送られてきた郵便為替は口数で12680口、金額にして39万3468ドルにのぼった。これらのほとんどは在米一世からの送金とみられるが、1940年度の送金額の二倍以上に達するものと期待されるに至った。即ち僅か五か月間で1940年一ヶ年の送金額にいま一息であり、一口平均約30ドルで、10ドルから最高2000ドルとさまざまだが、1000ドル、500ドルの高額は少なく、100ドルが多い。
府県別にみると、広島県が断然他を抜きトップで4万3千余ドルで全送金額の21%を占める。つぎは 熊本県2万4千余ドルで11%、以下山口県約2万ドル、福岡県1万7千余ドル、東京都1万3千ドルがつづいている」

日本から帰米した日系人

「戦前日本にいた日系市民帰米」1946年8月21日号

「東洋からサンフランシスコに15日午前10時入港のフライイング・スカット号で珍しくも5名の日系市民が便乗帰米した。

△ 上田ワイ・フランセス(修道僧) 
△ 川北友彌(エルセントロ) 
△ 村山ドロシー(ロサンゼルス) 
△ 岩崎スミ子(シアトル) 
△ 勝呂エミ子(シアトル)

何れも戦時中日本に滞在した者で今度特に進駐軍本部の許可を得て帰米したのである。埠頭には親、兄弟、知人多数で迎へたが、久し振りで再会する嬉しさに互ひに涙を流し、相抱擁し、劇的場面を展開した。5名とも市民だけに何等面倒なく上陸したが、赤十字社や旅行者保護協会の人々が何かと奉仕してゐたと日米紙は報じてゐる」

北米報知社の社友であった本間睦子氏が、8月15日に帰米した岩崎スミ子嬢から日本の様子を聞くため訪問し、インタビューをした記事があった。

「訪問記 本間睦子」1946年9月18日号

「日本人なら誰でも信じたく無い祖国の状態を映画で、紙上で、ニュースで知り、夢の様に感じてる此の頃、日本から5人の二世が桑港に上陸した。二女性はシアトル人で、現在スターアパート居住の岩崎氏令嬢すみ子様がその御一人と聞き、本当の日本を見たいとノコノコ出かけた。『戦時中日本で暮らしました』と静にしかしはっきり話される。本当の日本語が懐しく心に解けて行った。『食料困難はとてもひどう御座います。本当に何でも、砂糖でも、塩でも、マッチの様な物でも一時も早く送って上げて下さい。砂糖は長い間見ませんでした』『お店に行きますとこれもこれも日本に送りたいと、こんな物と思ふ物まで沢山集めてますの』御母様が側から優しく口添下さった。そして小さい飴三つ10円で闇で買ったお話をお伽話の様に聞かして下さった。(中略)
『日本で着物を着ていらっしゃいましたか』との問に驚いた様な顔して『着物など……第一布が有りません。自分の持ってます着物はモンペに作り直して過しました。これから寒くなりますのに、スエタ―も無し、子供のはく靴が有りません』『8月4日に乗船しましたけど白いお米は見ませんでした。常食はお粥10日に一度位の雑炊のお米が配給になりました。それも買へる人だけ、そう来る少し前でした。アメリカから来た白いメリケン粉が少しづつ配給になりました』『本当に困って来たのは』と聞くと『日米戦争が始まってからです。特に本土が爆撃される様になったこゝ2年です』

 「二世を日本から呼び寄せたい人のために、米国務省からの注意」
1946年12月18日号

『北米報知』1946年12月18日号「二世を日本から呼び寄せたい人のために、米国務省からの注意」

「日本から二世子女を呼び寄せたいが、どうしたらいゝか困ってゐる人のために、国務省企画部長代理ホール・チャップマン氏は帰米手順について注意を促してゐる。同氏の意見によると『若し米国に住んでゐる日本人家族で日本にゐる二世子女を呼び寄せたかったら、本人に直接書面を送り、連合軍総司令部米国政治顧問部に直接出願するか、又は書面を以て米国市民なることを立証することを勧告すればよい。この場合総司令部では慎重に調査した上で米国市民であることが確認されゝば帰米の手順をとることが頗る容易だ』とのことであるから、日本にある子女の帰米を欲する親達はチャップマン氏の勧告に従って早速本人に通信し、総司令部の許可を得ることにしたらいゝであらうと」

「帰米した二世」1947年3月26日号

「本日午前9時45分、50名の二世を乗せたアメリカン・プレジデント会社のゼネラル・ゴートン号は無事サンフランシスコに入港した。今回の便船では70名の二世が帰米する筈であったそうだが、8日の横浜出版日が10日に変更されたゝめ、これ等第二世の中には横浜を離れたものもあった。其後出帆日が再変更され、予定通り8日に出帆したゝめ20名の二世は乗り遅れたさうである。尚シアトルへ向った二世は左の7名である。徳田ドーナー(シアトル) 春井照子(ポート・ブラックレー) 木原妙子、益江、イツ子、嘉助(以上シアトル) 牧野常千代(シアトル)」

「原爆を免れた二女性帰米」1947年5月7日号

「タコマ市生れの住吉信子嬢(26)は実姉、長岡千枝子夫人と昨日入港のメーグ号で無事帰米したが、両人は戦前日本広島を訪問中、日米開戦のため帰米不可能となってゐたものである。住吉嬢は語る。『第一回原子投下の際は広島にゐましたが、幸にも生命には別條なく、この通りピンピンしてゐます』と。尚住吉嬢はロサンゼルスの父母の許へ、長岡夫人はコロラド州スヰンクの夫君の許へと本日出発した」

以上の記事を読むとアメリカ在住の一世たちは戦後、は日米戦争に敗北した故国日本へ何とか訪問したいという深い願望にかられていたことが分かる。それとは逆に、戦前に両親と一緒に日本に帰国した二世は、帰米したいという願望があった者が多かったのではないかと推察される。 筆者の父、あたえ はシアトルに生まれ、1941年2月に日本へ帰国した。戦後、口癖のようにもう一度アメリカへ行きたいと言っていたが、その夢が叶うことはなかった。

次回は日本人の渡米とアメリカからの訪日についての記事についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。