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東京右半分7~小名木川から~

江戸時代につくられた運河のなかで、今も健在の小名木川。その運河にそって隅田川へ向かって歩いてみた。徳川家康が掘らせたのだから相当古い運河だが、江戸の町の東にある下総の国(千葉県)の行徳(その頃は海辺だった)で産する塩やその他の農産物などを運ぶ交通網だった。歩き始めてしばらくすると、土砂を乗せたとてつもなく大きく底が浅く平たい舟を、モーターボートが引いてゆっくり行くのを見たから、今も何らかの運搬手段に使われているらしい。海に近い小名木川の「中川番所」があった辺りから隅田川までの道のりは、遊歩道として整備されている。途中で横十間川など他の運河も横切る。

隅田川もそうだが、この人工の川の両側には、かなり高いコンクリートの壁がある。その下に舗装した道があり、川の両側には高層の集合住宅や学校などがびっしり建っている。日曜の昼下がり、あたりに人影はなく、出会ったのは散歩中の中年夫婦二組だけだった。橋がいくつも掛かっている。しばらくすると、交差して横十間川という川(これも運河)があり、これはスカイツリーの前を流れる北十間川に流れこむ。こうして書いてみると、運河のほとんどが埋め立てられ道路に変身してしまった東京の「左半分」に比べて、「右半分」にはいかに水辺が豊かに残されているかを改めて認識させられる。

横十間川まで来て、それを南にたどると仙台堀川にぶつかる。そこから北に足をむけて10分ほど歩くと、左手に木々のかたまりが見える。それが、猿江恩賜公園。そのあたりの地名が「毛利」であることからして、この公園はもとは長州藩毛利家のものだったのだろう。かなり広い公園で、木々と花壇のほかに都民のスポーツ施設もある。公園の西側にある大通りは四ツ目通りで、三つ目通りがその東にある。江戸時代にあった道路を、そのまま名前ごと今に引き継いでいるのだが、こんなところも「右半分」らしい。

四ツ目通りと新大橋通り(その西端にかかるのが新大橋で両国橋のすぐ南)が交差する地点から北へ10ブロックほど行くと、錦糸町だ。JR総武線快速が停まる駅で、成田空港までの所要時間は1時間だ。駅の周辺は江東区一の繁華街。「錦糸町」という名の由来は知らないが、門前仲町のような歴史を持つ古い街ではないようだ。それだからか、なんとなく品のない野暮ったい雰囲気がこの街にはある。

西葛西がインド人街を擁しているように、ここ錦糸町には「リトルバンコック」がある。以前はフィリッピン人が多く住んでいたが、彼らがもっと北に位置する足立区竹ノ塚のあたりに移動した後に、タイ人がやってきたとか。タイ家庭料理レストラン、タイ食材輸入店、タイ式マッサージ店などが多く並んでいる。錦糸町をニューヨークのSoHoのようと言う人もいるが、それは当たっていないと思う。だが物価は安い。「タイ教育文化センター」があって、タイ舞踊とクッキングのクラスもある。ちなみに、千葉県成田市にもタイ人が多く住んでいて、タイの寺(ワットー)もある。

歌舞伎の「四谷怪談」のお岩さんが化けて出る場所が今の江東区の砂村だという。それを最近知っになって知ったのだが、境川と前述の横十間川が交差する地点にある「岩井橋」のそばがその現場。「砂村陰亡堀の段」に出てくる堀は実際にあったわけだ。ただ、そこは「砂村」という地名ながら昔からある村というわけではない。砂村という人物が開発して20年かけて農地にした場所だそうで、江戸初期にはそのあたりは陸地ではなかった。あったのは干潟や砂州、それと葦野原で、砂村は海沿いの景勝地、桜や松並木で知られた場所であった。海ぞいだから、漁師たちが信仰する弁天堂があり、八幡宮もあった。広重が「江戸名所百景」に描いている。

明治の頃になると、海苔やカキの養殖が始まり、大正時代になると潮干狩りや海水浴の客が押し寄せた。須崎の遊郭ができたのもこの頃かと思うが、近くに「仙気稲荷」という神社があった。大戦の末期の空襲で全焼したが、永井荷風が荒川放水路を目指して来てこの辺を歩きまわったのは1930年頃で、仙気稲荷へ立ち寄っている。

砂町は、その後は江東区の北端まで広がり、あたりには工場がたて込むようになったため、戦時中には戦火を浴びた。1950年後半に売春禁止法が施行されて遊郭街が消滅するまでは、歓楽街もあった。1960年後半からは団地が建ち始め、地下鉄の線が延びるにしたがって移り住む人は増え続け、商業施設もととのっていった。丸の内まで10分ほどという地の利も手伝い、南砂には、再開発の結果である大型ショッピングセンターもできた。

この辺、江東区の南端近くを歩いてみた。あたりを流れていた三本の運河はいつ頃埋め立てられたのだろう。その先には、豊洲、辰巳、それから有明という土地がある。その東京湾沿いの地を臨海線が走り、「新木場」という駅がある。昔の「木場」のように、今はそこに木材市場や貯木場がある。このあたりはすべてあたらしい埋立地で、高層マンション群が並び人工未来都市の様子を呈している。食品店などの店舗などが見当たらないのはどうしたことかと思うが、ビルのなかにあるのかもしれない。そのさら先にも埋め立て地があるが、その南端を走るのが湾岸道路、横浜方面へと続いている。木場から南下する高速道路は深川線といい、この道路につながっている。いちど車で走ったことがあるが、車窓から見るその辺りは私の知っている東京ではない。

(田中幸子)