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第6回 シアトル日系人の故国難民救済活動〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第6回 シアトル日系人の故国難民救済活動

前回は領事館の設置に関する記事についてお伝えしたが、今回はシアトル日系人の故国難民救済活動の記事についてお伝えする。シアトル日系人は、日米戦争後の荒廃した故国に住む日本人難民救済のために、食料、衣類等の生活必需品を送り続けた。


日本救済物資輸送の許可

「故国救済物資」1946年6月26日号     

「6月18日付を以って大統領令に依り日本救済物資輸送許可を得たるはLARA団(アジア救済連盟の略称)にして私設13団体をもって構成するものである。即ち米国友愛会新教連盟AFL及びCIO労働団体、基督女子青年会、舊教きゅうきょう 団体、兄弟協同団等を筆頭に有力なる13団体にて共同救済事業に当る事となって居る。連合国救済事業は既に進歩して大いに其の実を挙げてゐるが敵国であったドイツ、オーストリア、フィンランド及び日本に向けては最近僅か月に2000ドルの物資送達を許可されたのみである。(中略)東京にてマッカーサー将軍の命ずる救済班と日本政府選定の救済物資分配委員と協議して協定の契り次第米国より物資輸出を開始する事となったのである。それ故に羅災りさい民への物資分配は公平に行はれる事となって居る。我が西北部救済会(シアトル難民救済会)はこの友愛会団と共同して救済物資の募集、搬出並びに分配等一切の事務に当って居るから速刻之がベーリング(荷詰め)に取りかゝる事になって居てシアトル剣道会にてミンクル氏が主任で之に当って居る。西北部救済会本部にては近く大運動を開始して在留同胞を個別に訪問し、救済物資、義損金等の募集開始を為す事となり市民、非市民の別なく之に参加する筈である。急を要する日本の現情に鑑みて日系人諸氏の振って応募せられんことを希望して居る」

同日の広告覧に、西北部日本難民救済会本部から次の告示が掲載されている。

「告 餓死戦場を彷徨ほうこう する日本の難民へ温かき救援の手を差し延ばしませう。寄附金、救援物資を日本人教会へ御届けください。西北部日本難民救済会本部」

「日本の難民救済へ、米国友愛会が大童」 1946年6月26日号

「日本の難民救済へ、米国友愛会が大童おおわらわ 」1946年6月26日号

「米国友愛会は13カ国の難民救済に従事しつゝあるが今回日本の難民救済のため、救援物資を日本へ発送する事をマッカーサー司令部より許可されたので、米国友愛会本部の書記長、クラレンス・E・ピケット氏は救援物資募集につき、次ぎの如く発表した。『日本からの報道によると日本国民の栄養値は一日一千カロリー以下に低下し、被服、石鹸、医薬は絶無に等しく、日本国民の健康は日々損なはれて行きつゝある。米国友愛会は日本の難民救済のため食物、被服、救済資金の募集を許可されたので被服類はカリフォルニアの倉庫宛に送り届けられ度い。罐ミルクや粉ミルク又は石鹸等はフィラデルフィアの倉庫宛に送り届けられ度い。白米、砂糖の如きものは罐に詰めて貰ひ度い』

シアトル難民救済会の活動

「難民救済 義損金募集」1946年7月3日号

「元シアトル国語学校に本部を置く西北部日本難民救済会(シアトル難民救済会)は7月10日より、大々的に義損金募集に着手することゝなり、玉壺軒に勢揃ひして一斉に開始する由なるが、各区域には委員が割り当てられて居る。新住所等の関係上応募漏れの方々は下記救済会本部までお届を願ふとの事である。難民救済本部、ウエラー街1414、義損金募集主任、三原源治、顧問、奥田平次、伊東忠三郎」

「故国救済委員会」1946年10月23日号

「去る10月19日救済会本部にては委員会を開催、出席者は町田、伊東、三原、則武、原、近村、湊、ウインカー、及び友愛会支部長ダンフォースの諸氏にして町田氏議長となり、三原氏は事務報告を、則武氏は会計の報告をなし、二三の質問の後承認、続いてウインカー氏より故国救済衣類品5トンをベール詰として船積みに用意せる旨を報告、新任シアトル友愛会支部長ダンフォース氏はシアトルに於ける波止場罷業解決次第、衣類並に食料品の日本向け搬出の用意ある旨を報告、更らに衣類、食料品の日本向け輸送はエル・エー・アール・エー機関をのみ通じて許可ある旨を注意せられたりと。尚友愛協会の日本救済資金募集額は10万ドルであるが、50万ドルに増額する考へであると述べられた。左の諸件を議決せりと

一、救済金募集に尽力せし各部員及古着整理に奉仕せし婦人に対する慰労の件
二、募集金額7135ドルの救済物資購入の件
三、エル・エー・アール・エー機関を通じて来月初旬シアトル港到着の便船を利用し、物資発送の件
四、連盟教会和田牧師並に日蓮教会小田開教師を実行委員として推薦する件

「母国同胞へ温かい手を延ばす難民救済会」1946年11月6日号

「日曜日のシアトル・タイムス紙はキング街1212で古着類の整理に忙しい為、篤志婦人の奉仕振りを写真入りで大々的に報道してゐる。太平洋沿岸に於ける三つの救済会の一つであるシアトル救済会では各方面から寄贈される古着類の整理に忙しい。既に荷造りを完了したのでLARAの手を経て本月早々日本へ発送する事になってゐる。(中略)今日までに日本難民救済本部で受領せる金額は8306ドル68仙に達したが、そのうちには別途会計の800ドルも含まれてゐる」

1947年の新年号に、シアトル難民救済会の活動についてのエッセイが掲載された。

「新春を迎へて」1947年1月1日号第1面

「アメリカに住む我々は、直接の戦禍を受けず、故国の惨状を知ることは出来ないけれど、我々の想像以上であったであらうことが思はれる。今や原子爆弾に見舞はれた我等の祖国は国民一致団結して雄々しくも立ち上らうとしてゐるこの秋にあって我々は過去4年の鉄檻生活の苦しみからようやく解放せられたとはいへ祖国々民の苦しみに較べれば物の数ではない。よろしく故国被災民の苦しみを分けて之を救助することが、目下の急務ではあるまいか。シアトル市を初め、日系人の住むところ故国救済会なるものを組織、一意難民救済に乗り出してゐるが、これ等の救済会の手を通じて我々の温い愛の結晶ともいふべき品々が、彼等の手に渡ったとき、如何に喜ばれるであらうと想像し、新春と共になお一層の援助我等同胞に希望して止まない次第である」

救済品サンフランシスコから日本へ

「日本行救済品、サンフランシスコで輸送を待つ」1946年10月30日号

「ロサンゼルスに本部を置く米国友愛協会より本社に宛てた書面によると友愛協会では既に34821ドルの戦時過剰品を買ひ集め、それにクエーカー教からの寄付による乾卵、肉類缶詰、ジャム、毛布類、脂肪類、衣服類を一纏めにして荷造りのサンフランシスコ向け発送、愈々本格的に日本救済に着手する事となった。この救済品に就いては日本に於ける友愛会の代表者が日本の主なる社会事業家、宗教家、並びに民間指導者達とよく協議した上で日本政府へ寄贈、政府の手によって人種、宗教の如何に関係なく、最も救済を必要とする人々に対し公平に分配せらるゝことゝなるが、就中急を要するものは幼児、療養所にある少年少女、並びに結核に病む人々である」

「シアトル難民救済会 第1 回発送の古着類、降誕祭前に横浜到着」1946 年12 月4 日号

「シアトル難民救済会 第1回発送の古着類、降誕祭前に横浜到着」
1946年12月4日号

「西北部故国難民救済会は去る11月26日、臨時委員会開催、出席者は市川、奥田、三原、伊東、則武、小田、和田、石川、町田の諸氏、石川勇氏より祖国救済物資の分配と発送方法について詳細なる報告あり。

一、現在までに6トンの衣類ベールの荷造りを終り、応募金額は8300ドルに達す。
二、日本救済に関し、直接に活動しつつあるは友愛会、キリスト教会連盟、並びに舊教団の三団体の
みにして他の十団体は不活発

三、当シアトル市よりの衣類品は既に11月サンフランシスコ出帆の米国運送船にて発送せるが、降誕
祭前横浜に到着した。 

四、LARA救済国は日本横浜支部を設け、日本政府よりの調査報告を受け、必要に応じて分配しつつ
あり。現在各県を通じて一万人の孤児には毎日500カロリーの食物を給与し、肺患者3000人と
嬰児3000人に応急手当を施しつゝあり

五、最近の積荷発送価格は156000ドルにしてサンフランシスコを発送港と決定せり
六、今後は主として毎月3トンから4トンの食料品を発送する筈
七、本会の募集金額は祖国難民の喜ぶ食料品を多量に購入すべく友愛会と緊密なる交渉を継続するこ

「救済品発送」 1946年12月25日号 

「故国救済品を搭載する輸送船が1月7日サンフランシスコを出帆することゝなってゐるが、シアトル市の西北部日本難民救済会では、同胞愛の結晶たる義損金18441ドルの食糧を購入、全米アジア救済本部を通じて既に、荷造り済の古着約10トンと共に輸送船に託して日本へ発送される筈。尚三原源治氏は発送監督のため来月早々サンフランシスコに向ふ」

「救済会物資発送、シアトル被災民救済会発表」1947年1月1日号

「救済会物資発送、シアトル被災民救済会発表」1947 年1 月1 日号

「西北部故国被災民救済会は、去る12月16日本部事務所にて臨時幹部会を開催し、来る1月7日出帆の便船で故国に向け物資発送すべく、即時手続をとることゝなった。譲金の内訳で見ると、シアトル附近より8000ドル、スポ―ケン市より4000ドル、並びにボイセー平原より6000ドル、計18000ドルに達した。よって之れを食糧品並びに医療品に代へて故国に発送の上、日本政府厚生省により各県よりの必要品申請に従って公平に分配することゝなったが、元駐米大使堀内謙介堀内謙介ほりのうちけんすけ 氏が分配委員長として活動してゐる。(中略)以上は第一回分として締切り、来年度より第二回募集を開始することに決定せりと」

「故国難民救済品  9日サンフランシスコ出発日本へ」1947年1月8日号  

「1月6日サンフランシスコ三原氏よりの来電によればシアトル難民救済義損金を以て20トンの砂糖、21トンのパウダー、ミルク及び10トンの乾物の購入に成功し、10トンの古着類と共に来る9日サンフランシスコ出帆の便船にて日本へ輸送せらることゝなった」

「民間救済品800トン、サンフランシスコから日本へ」1947年1月15日号

「西北部難民救済会特派員としてサンフランシスコに派遣せられた三原源治氏が、同地に於て砂糖4万きん (20トン)買入の許可を得て砂糖飢餓の祖国に船積されたことは既報の如くであるが、第二回民間救済品600トンは運送船スコット・ランド号で1月9日サンフランシスコ出帆の予定であったが、出帆間際に全米各地からの救済物資が更に200トン第46埠頭に到着したゝめ、これ等の物資も船積するため、3日出帆が延期される事となった。西北部同胞よりの譲金によって購入された物資を挙げれば砂糖40000斤(20トン)価格3200ドル、粉ミルク20000斤(10トン)価格11500ドル、乾桃20000斤(10トン)価格3300ドル シアトル市の篤志とくし 婦人の奉仕によって出来上がった約10トンの古着類は、他地方に比較して品質並に荷造りに断然優れてゐるとサンフランシスコ、エル・エー本部委員は口を極めて賞讃してゐたとのことである」

以上をまとめると1946年のシアトルから日本へ送られた救済品は以下表1の通りである。

第二回日本難民救済

「難民救済委員会、陣容を整えて新活動」1947年2月19日号

「 第二回日本難民救済を目指して組織せられた新委員会は2月12日元国語学校校舎の救済本部で開催せられた。新役員が次のように選定された。
▪️委員長 和田正彦 ▪️副委員長 市川達也、沖山栄吉 ▪️幹事 三原源治 ▪️書記 亀井義人
▪️会計 則武繕一郎 ▪️湊小市会計監査役 松田龍太郎、近村改蔵 ▪️名誉顧問 奥田平次、伊東忠三郎」

同日号によれば、古着類の日本への送り出しの荷造りを、シアトル難民救済会顧問で80歳の奥田平次氏が手伝ったことが記載されていた。

「救済品を積んだ米国輸送船、無事横浜港に到着」1947年3月19日号

「友愛協会世界教会奉仕、カトリック復興委員会の手によって送り出された日本難民救済品1500トンを積んだ、米輸送船スコット・イー・ランド号及びゼネラル・ゴードン号は過日無事横浜港に入港した。(中略)今回到着せる救済品の分配については細心の注意を払う考えであると当事者はいってゐる。而し現在のところでは主として都会にある難民の8000人に及ぶ難民の子供、3000人の肺結核患者へ分配することとならう」

感銘を受けたシアトルの難民救済作業

「感銘深いシアトルの難民救済作業、大谷裏方の帰朝談」1950 年2 月23 日号

「感銘深いシアトルの難民救済作業、大谷裏方の帰朝談」1950年2月23日号

『婦人の世界』2月号にこのほどアメリカから帰朝された大谷智子裏方の『アメリカ土産談』が掲載されているが、その中に救済に関する次の如き記事があった。『戦争の後には在留同胞の精神的にも物質的にも莫大なものがあったと承りました。殊に太平洋沿岸から移動を命ぜられキャンプに収容された人々は全財産を失い無一文になった人が多かったのですが、戦後全米に分散して逞しい意欲と努力を以て復興にいそしんでいられる姿は尊いものです。而もその中から全米にいたる処で日本難民救済会を組織してララ物資を贈っていて下さるのです。何処へ参りましても私は先ずこの事について感謝の意を申述べて参ったのでございますが、シアトルに帰りました時には特に日系人会長三原源治さん、副会長の沖山さんに案内されて、各地から集められた古着類を作業場で洗濯したり、ボタンをつけかえたりして、すっかり整理の上、日本へララ物資として発送して下さる工場を見せて頂いて、深い深い感銘をうけた事でございます』

「救済古着百頓突破」1950年12月9日号

「 キング街1212作業場の西北部日本難民救済会は、過去5年に百噸の古着を修復しララを通じて日本難民に送ったが、それらの凡ては同胞有志婦人達の無料奉仕によるものであった。三原専務の発表によれば本年度の最高記録は再び常石夫人の76日を筆頭に多くの諸婦人であった。(婦人氏名掲載)」

日本での様子

「第1回発送救済品、均等に分配されたと米国友愛会発表」1947年1月15日号

「第1 回発送救済品、均等に分配されたと米国友愛会発表」1947 年1 月15 日号

「友愛会を通じて日本へ輸送せられた在米同胞からの温い贈物、第一回分は去る11月30日無事横浜に到着、陸揚後直ちに公認アジア救済会に引渡された。同協会ではこれ等の救済品を按分するに当たって日本政府とも協議の上、政治、宗教に関係なく公平なる方法によって次の如く分配した。東京附近35%、大阪附近18%、横浜、広島、長崎、神戸、名古屋、京都、其他救済を必要とする地方へ47%、救済食糧品は、主として幼児育成所、結核療養所、帰還難民、障碍者施設への食糧を補充するために分配された」

「戦禍の東京より」1947年1月29日号

「東京ララ救済本部エスター・B・ローズ女史からシアトル難民救済本部の三原源治氏へ次の如き書簡を送って来た。『シアトル救済会からの古着作業場、写真6枚有難く受領致しました。一月に入ってからの東京は特に寒気厳しく、まだストーブも水管もないララ救済本部も耐え難くなりましたが、日本の多くの人々が、雨の洩る小屋で粗食し薄着でおられることを思へば我慢も出来ます。或る子供達は、ララ救済本部をサンタクロースと間違えて居るらしく、沢山な御礼状をララオジサン宛に来ています。なかでもキャンディーに対する感謝の御礼状が一番多く、まいって居ります。日本で配給のないものは砂糖です。少しでも砂糖が送って頂けたら、どんなにか日本の皆様方に喜ばれることであらうと思ひます。ララ救済団では一万人の孤児と3000人の肺病患者の御世話を引受けました関係上、特に大量のミルクの必要に迫られて居ります。第2回救済船が、サンフランシスコで救済物資積出しの準備がされてゐるとの電報を只今受取まして喜びに堪へません。一日も早くその到着を待ってゐる次第であります』

1946年6月26日号記事によると、エスター・B・ローズ女史はこの年同月に来日し、日本における救援物資の配給機構の設立に尽力した親日派の婦人である。記事中の写真はシアトル難民救済会の古着作業場。

「戦果の東京より」1947 年1 月29 日号

日本国民の暮し向き

「日本国民の暮らし向き一番困るのは着るもの」1949年12月22日号

「いま、一番困るものは―きるもの、たべるもの、すまい、燃料―とすべての階層が答えた。この声は昨年と順位も同じなら比率もほとんど変わらず、ここ一、二年来は『たべるもの』より『きるもの』への要求は移ったようだ。その比率をみると ① 着るもの54.7%② 食べるもの 26.3%③ 住まい9%④ない5.6%⑤ 燃料2.1%  ⑥ わからない2.3%」 (以下表2参照)

この記事によると、戦後まもなくは食料難が最大の問題であったが、1948、49年頃になると衣服類が日本国民の最大の欲求だったことが伺える。

日本からのお礼

日本でアメリカからの衣類等の贈物のお礼の手紙が紹介された。

「アメリカの皆様結構な贈物を有難う」1947年3月26日号

「アメリカの皆様―私は昨年8月内地へ帰還した二人の病児の母です。夫はこの度の戦争に召集出陣しましたが、未だにその生死の報も分らないのであります。私共は僅かばかりの衣類をもって東京へ帰ってきましたが、零度以下6度の東京の冬にはほとほと弱らされ一日千秋の思ひで春の訪れを待っていました。(中略)温い愛の心でお送り下さった品々の中からオーバーコートは私が頂き、アンダーウエアーは二人の子供に与えました。只今では冬の寒さも忘れた様に嬉しくて嬉しくてなりません。あなた方のお蔭でこれから外出着にも普段着にも困らないようになりました」

以上の記事を見ると、日本の食糧事情、生活状況は想像を絶する悲惨なもので、これを少しでも救済しようとするシアトル日系人の懸命の救済活動には敬服する。

次回はシアトル日系人の立退賠償問題の記事についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

① 伊藤一男『アメリカ春秋八十年―シアトル日系人会創立三十周年記念誌―』PMC出版社、1982年
② 飯野 正子『もう一つの日米関係史』有斐閣、2000年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。