3月31 日号で掲載したオレゴン取材を振り返る続きをしたい。前回では、日系、または日本との縁や接点が意外と多いことに触れた。コースト沿いにある牡蠣養殖に多くの日系関係者が携わり、その面影は沿岸沿いの町サウスベンドから南西にかけて見ることができる。
そこを越えるとオレゴン州境に近い。東日本大震災で小舟が漂着したロングビーチ、またコロンビア川河口にあるアストリアが次の訪問先となる。
アストリアには、昨年外務大臣表彰を受賞、日章旗返還活動を続けるOBON Society の展示があるコロンビアリバー海洋博物館がある。ジーク、敬子・レックス夫妻による活動の一端は、博物館で英語、日本語両語による説明とともに展示されている。またロングビーチに漂着した津波小船も展示されている。
町の丘の中腹には、日本初のネイティブスピーカーの英語教師となったラナルド・マクドナルドの記念碑も建つ。彼の指導を受けた森山栄之助がのちの日本開国の鍵として通訳を担うことになる。オレゴン州端の小さな町ながら、日本には欠かせないストーリーが残されている。
アストリアを沿岸沿いに進むと隣町ウォーレントンに出るが、ここには第二次世界大戦時、日本軍潜水艦がフォート・スティーブンス基地へ行った砲撃の記録を残す碑が建っている。
ポートランドへはシーサイドを抜けて州道26 号へ入ることになる。途中は峠道となっており、日系社会の隠れた松茸採集の場所は、海岸とポートランドの間にある山間部とも聞いた。
オレゴン州日米協会の黒崎美生会長によると、オレゴン州は林業に加え、日系コンピューター関連企業が1980年代などに多く進出したこともあり、雇用面なやビジネスにおいて日本が大きな存在だったことを明かす。同州は関連教育機関での日本語受講者数の人口比率が、米本土で最も高いとされている。約30 年前にあった日本との関係が良好にあったことが、改めて次世代となる現在の日本語教育、日本文化への関心につながっているのではないだろうか。
成功に終わった歌舞伎公演含め、日本ファンが定着する環境や状況が時代ごとに残り、脈々と続いていることがわかる。(続く)
(佐々木 志峰)