「新宿二丁目」
歌舞伎町の南の新宿道りが明治道りと交差する地点、地下鉄新宿三丁目駅のあたりは新宿繁華街の中心である。紀伊国屋書店や伊勢丹デパートがあり、いつ行っても人でごったがえしている。しかし、新宿通りを次の信号まで歩いた新宿二丁目あたりは、急に静かになる。私はこの界隈が気に入っている。
ここの甲州街道寄りに、太宗寺という寺がある。墓地はなく境内もまことに狭いが、400年の歴史を持つ寺である。寺そのものは鉄筋コンクリートの変わり映えしないものだが、境内の一隅に座っている巨大な地蔵は一見の価値がある。よく見るとその表面にたくさんの人名が刻まれているのだが、寄進者たちの名前だそうだ。
今の新宿駅周辺は、江戸時代には「内藤新宿」と呼ばれていた。宿場として旅籠が連なり、現在の新宿三丁目から一丁目までの距離には町屋がびっしり並んでいた。そこは太宗寺の賑やかな門前町だったのだそうだ。江戸時代に続き明治の世になっても、そこには遊郭があったが、吉原などに比べるとこちらは「モダン遊郭」と言われた。
そこが、戦災で焼けると赤線地区になった。いわゆる「カフェ」がたくさんあったが、それはコーヒーを飲む場所ではなく「特殊飲食店」といい、売春が行われた。
戦後になって売春禁止法が通ると、モダン遊郭には旅館やトルコ風呂(今はソープランド)が軒を連ねた。200平方メートルの空間に100軒ほどのバーやその類似店がひしめいていたという。今は「ゲイタウン」だそうだ。歌舞伎町などにくらべて静かなのが特徴で、この辺りのゲイバーは落ち着いて過ごしやすいと女性客にも人気という。近頃の傾向として、バーや飲食店がオフィスビルなどにとって代わっているということだ。
「荒木町」
新宿を紹介すると、どういうわけか、昔(江戸時代から比較的最近まで)の遊郭の跡や赤線・青線地区の話になる。しかし、新宿は広く、その雑居の状態がおもしろい。歌舞伎町に隣接する新宿六、七丁目のあたりは、今も昔ながらの静かな住宅街地域だ。繁華街からほんの数分歩くだけで、道の両側に古びた二階建ての住宅があり、つい最近までは風呂屋もあった。七丁目をさらに行くと、区の北東の隅には興味ある町名がずらりとある。いわく余丁町、弁天町、荒木町など、いずれもその名の由来をたどると歴史がひもどけるだろう。三丁目からはすぐの荒木町や神楽坂(区の北東の隅で最寄の駅は中央線飯田橋)も歴史を持つ街である。
荒木町が花街としてにぎわったのは昭和20年代だそうだ。その頃は路地を芸者たちが歩き、待合や料理屋が並んでいた。それ以前の明治の頃は、荒木町は景勝地として知られていた。今もある「津ノ守坂」という名のつく坂道は、ここが美濃摂津藩の屋敷跡であることを示している。屋敷がなくなった後も、池のある庭園が残り、行楽地として人を集めた。その頃からのものだろうか、大イチョウの木が狭い道端に立っている。ぐっと小さくなったものの、池もまだある。
昭和の中頃までの荒木町には「芸妓学校」や「見番」があったらしい。稲荷神社は昔と変わらない様子で今もある。その古びて感じのいい祭壇にはあたらしい水と花があるから、賽銭をあげる人も昔と変わらずいるのだろう。隣接の緑地帯では、映画だか広告写真だかの撮影が進行中だった。映像を取りにわざわざ来るほどのちょっと特別な雰囲気が、ここ荒木町にはたしかにある。
料理屋、レストラン、バーなどが人家にまざってほんの数軒ある荒木町へは、新宿通りからだとすれば、ながい坂かあるいは階段を降りなければならない。一帯はすり鉢のようになっているのだ。それがこの荒木町が昔の雰囲気を今に残しえている理由の一つのような気がする。上がったり下がったり、数ある狭く曲がることの多い路地裏をぐるぐる歩いても、2、30分ぐらいである。
古びた住宅の前に東京都の老人介護サービスの入浴車(寝たきり老人に風呂をに入れる)が道一杯に、ようやくという風に停めてあった。界隈には昭和期に建ったような平屋がいくつかあり、あたりは静まりかえっている。それがいっそう昔の面影を醸し出しているというわけで、今は数少なくなった「東京の昔」が、といっても3、40年前にすぎないが、味わえる荒木町へ足を運ぶことをおすすめする。