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形でない「何か」

メモリアルデーは季節の変わり目、様々な自然の息遣いを感じる初夏の入り口となる。当地で長年文化活動を続ける各生け花団体も展示会を開催。先週末にはシアトルアジア美術館で草月いけばなシアトル支部の展示会が 行われた。

デモンストレーションでステージに立った恵ショッカーさんは、45分という時間で6作品を作り上げた。季節の草花を自宅庭園や、近隣などから採取し、オリジナルの作品を作り上げていく。

デジタルに囲まれた現代生活。対し、生け花は日々の喧騒から一歩身を引 き、自然に触れる大切さ、そこから新たなエネルギーを得る魅力があると説明していた。

個人的には、ただ自然にあるものを鑑賞するのではなく、あえてそこから 取り外し、自身の創造性をもとに新たな命を吹き込むものと理解した。だが、そうした考えを膨らませていると、逆に現実に戻らされる瞬間があった。

生け花の作品として選ばれた花、木、草。一方、形作るために生ける前に切り落とされた草花もある。美しく生けられる側に対し、「外された」側に目が向いた。「普段の生活喧騒を離れて」いたはずが、一気に人間社会の現実に戻されたような瞬間だった。

おそらく生け花には、自然との接し方、また草花を刈る、そしてまた生けるといった行為に対し、「生」や「死」 に関する概念も関わってくるのだろう。考える内に作品の見た目の完成度ではなく、一作品の「重さ」を実感し始めた。

3月に訪れたポートランド日本庭園で建築中の文化施設「Cultural Crossing」では、こうした日本文化の奥底に眠り、あらゆる人が共有できる価値、普遍的な部分を探求すると聞いた。

形ではない「何か」――。時代や環境で形を整え、姿を変えてきたなか、絶対に揺るがない内面にあるものが、伝統文化として今も生き続けているのだろう。

当日のデモンストレーションの観覧者、その後の出入り口ですれ違った展示会訪問者は多様だった。生け花という作品の姿や、華やかなデモンスト レーションの中に色々な思いを感じることができる。それは今回筆者が感じたようなことではないかもしれない。各個人それぞれ違うものだろう。だが、それこそが伝統文化の奥底に眠るという真の魅力なのかもしれない。

(佐々木  志峰)

佐々木志峰
オレゴン大学でジャーナリズムを学んだ後、2005年に北米報知入社。2010年から2017年にかけて北米報知編集長を務める。現在も北米報知へ「一石」執筆を続ける。