令和という新しい時代と共に、新しい天皇陛下が即位した日本。皇室の歴史や今後の課題などに思慮を馳せる時となった。
「天皇」という言葉には馴染みがあっても、「上皇」と言えば歴史の教科書に出てきた後鳥羽上皇ぐらいしか浮かんでこない。「上皇さま」と聞いて、まるでタイムスリップしたような感覚になった。5月8日に行われた期日奉告の儀では、820年の嵯峨天皇の時に定められたと伝えられる「黄櫨染御袍」と呼ばれる天皇だけが着衣できる第一礼装を、新天皇陛下がお召しになった。独特の茶系色が美しい黄櫨染御袍に対して、勅使発遺の儀で召されたのは、白と赤が鮮やかな御引直衣。礼装の艶やかな色彩が印象的だった。
日本以外の国に住んでいると、「自分は日本人だ」と認識する機会が多い。日本皇室の千年以上続く儀式や礼装を見ると、その感慨深さたるや、何とも言えない。剣璽等承継の儀で用いられた三種の神器とされる八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣に至っては、もう神話の世界を思うばかりだ。隠れてしまった天照大神を誘い出す際に使われた八咫鏡。ヤマタノオロチの尾から出てきたとされる草薙剣。こうした神話が本当かどうかという事よりも、そういうものとして今まで継承されてきた営みこそが、歴史だと思う。
前回、藤原実季が宮殿内で自分の印として「巴紋」と呼ばれる勾玉をモチーフにしたシンボルを使ったのが家紋の始まりという話をした。勾玉は、日本の装飾品の中でも最も重要なものの一つ。三種の神器の一つである八尺瓊勾玉も、翡翠で作られた勾玉とされる。勾玉は古墳などからも多く出土され、日本の歴史が始まった頃はネックレスのように身に付けられていた。仏教の広まりと共に、勾玉を身に着ける風習がなくなってしまったと言われる。その後、近代に至るまで、指輪やネックレス、イヤリングなど直接肌に着ける装飾品であるジュエリーが日本では一般的でなくなってしまった。日本国外のオークションや博物館で出展される何百年も昔のジュエリーを見ると、日本でも勾玉の歴史が続いていたら、さぞ精密で美しいジュエリーが造られただろうにと、少し残念に思ってしまう。
ジュエリーの復活は、江戸末期から明治初期。その頃、左手薬指の指輪を身に着け始めたのは遊郭の女たちだったと言われる。一方、産業革命やダイヤモンド鉱山の発見と共に供給が増えたダイヤモンドは、皇族や明治要人の妻たちによって、日本人にも認知される存在になった。
剣璽等承継の儀で皇后陛下雅子さまが身に着けたダイヤモンドの第1ティアラは、明治の昭憲皇太后から引き継がれているもの。代替わりのたびに、各時代の皇后に合うように少しずつマイナーチェンジされている。第3まであるとされる皇后のダイヤモンド・ティアラの中で最も価値のあるものが、第1ティアラなのだ。このティアラに加え、3連から2連にリフォームされた大粒ダイヤモンドのネックレスが首元を飾っていた。
こうしたジュエリーを身に着けて、シンプルな形の白の半袖ローブデコルテに身を包んだ皇后陛下雅子さまのお姿は神々しく、天皇陛下とのご婚約内定後に白いコートに身を包んで初めて公の場に出られた頃の華々しいお姿を彷彿とさせていた。ハーバード大学卒業で外務省勤務の才媛、そして美しい当時の雅子さまに、多くの日本人が憧れた。療養で公の場にあまり出なくなった雅子さまが、表舞台で堂々と天皇陛下の隣にいる姿を見て、安心した人も多かっただろう。私もその一人だった。
剣璽等承継の儀のダイヤモンドの装いから、即位後朝見の儀では長袖のローブモンタントに大粒のパールのネックレスとイヤリングが輝いていた。日本人女性として、皇后陛下雅子さまには華やかなその佇まいとその知性で、令和という新時代にご活躍していただきたいと願う。
(金子 倫子)