洲崎のあたりまで来た荷風は、その先の荒川放水路(今は「荒川」) の岸辺を、水路が海へと流れ込むあたりまで足を運んでいる。「荒涼たる風景を求めて荒川放水路の堤へ」とある。「隅田川の両岸は千住から永代の橋畔に至るまで、・・散策の興を催すには適さず」と書いた彼としては、そのあたりを発見したのは嬉しかったようだ。荷風の散策の理由と対象は徐々に変化していったようだ。それまでの私娼たちの生活の底にある「荒涼」から、自然の荒涼へと目を注ぐようになっている。どんな経路で荷風が荒川放水路の土手にたどりついたのかと考えてみると、前述の玉ノ井のあたりからは土手はごく近いことに気がつく。歩いても10分たらずの距離である。荷風の頃も今も、水戸街道は四つ木橋で荒川を渡って北へと続いている。四つ木橋の先は現在は葛飾区だが、そこまで来た荷風は、橋の西にある堀切へ足を延ばしたと考えられる。
堀切は今も江戸時代の昔も菖蒲園で知られており、葛飾区にある。荷風には「葛飾土産」という小品があるが、その「葛飾」は現在より広範囲を指す葛飾郡からきていて、江戸時代には武蔵の国の一部だった。田園が広がっていた地である。一般観光客は菖蒲園を目指して葛飾の堀切を訪れたろうが、荷風の関心はむしろ堀切橋のあたりだったのではないか。その辺りへは、「高橋より行徳通いの石油発動船で中川を横切り西船堀の岸」へとあるように、水路だった。この舟の便は今はない。しかし、荒川(放水路)の堤防はもちろん現存する。
荒川放水路の両側は、荷風が歩いた頃は土手だった。今はアスファルトの車道である。土手幅いっぱいの二車線道路になっていて、交通量はかなり多い。わたしはそこへよく。自転車を走らせるが、荒川に隣接して流れる綾瀬川を木根川橋を渡ることが多い。橋の途中で川端へと降りるとサイクリング道路(舗装してない土の道) があり、川とのあいだには丈が二メートルほどもある葦が生えている。その葦だけが荷風の頃を彷彿とさせるが、あとは運動場や子供のための野球場である。
生まれが深川の映画監督、小津安二郎は「東京物語」の舞台をこのあたりに選んでいる。遠方の田舎から子供たちを訪ねて東京へやってきた老夫婦の話だが、長男が開業する医院は堀切駅の近くという設定である。場末とまではいかないが、都心からはずれた住宅地である。娘も街はずれの小さい美容
院の主だが、双方とも、都会に出てきて大成功したとは言えない境遇にある。どちらの家でも歓迎されないことを知った老夫婦が、堀切橋にほど近い土手へと上って川を眺めるシーンがある。車の走っている今はそれはできない。
「東京物語」が撮られたのは1953年だが、そこに出てる荒川土手や近くの住宅街の雰囲気は今もそう変わらないだろう。京成本線が川をまたいで走っているが、その線の堀切駅は荒川の土手のすぐ下にある。駅はいかにも小さく、駅前の広場もない。周りの住宅のなかに埋没したかのような駅へ行くには、土手からの階段を下りなければならない。
「東京物語」の頃とそう変わらない堀切駅のまわりには、庭をもたない住宅がほとんど無計画にならんでいる。道路はごく狭く人影もない。遊んでいる子供たちの姿も見えない午後のひとときに行き合
わせると、まるで時がとまったような錯覚を覚える。「東京右半分」でなければありえない現象だが、この辺は「再開発」による変化の波をかぶっていないのだ。
(田中幸子)