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私の東京案内 15

浅草 2

浅草の中心は浅草寺だが、その由来は古く7世紀にさかのぼる。6㌢足らずの観音菩薩を祀っているが、それは「秘仏」とかで見たことのある人はいないそうだ。江戸に開幕まもない徳川家康が引き立て、その後も将軍家の庇護をうけた。表参道に商店が並びそれが「仲見世」として定着、その後、境内の奥西側(「奥山」)に大道芸が出たりして人を呼んだ。江戸の中期には境内は娯楽の場になっていたわけだ。それが明治期にも引き継がれ、境内が公園地の一部となり盛り場として発展、それを前述の英国人がちが見たわけである。その頃には仲見世は煉瓦作りの建物になっていたという。

この大衆の遊び場だった浅草では、大正時代になると『浅草オペラ』が上演された。日本版の『カルメン』や『リゴレット』などだが、むしろオペレッタに近かった。「十二階」と通称される東京一高い12階建ての商業施設と展望台はすでに建っていた。

戦争直後の浅草は、娯楽場がほかもできたりして、衰退の時期を迎えるのだが、それまでは、六区と呼ばれた中心街には、映画館が一時は14もあり、また「ミュージックホール」や「レビュー」(足を出して見せるコーラスラインなどが登場する)も人を集め、今では考えられないほど. ポピラーだったという。永井荷風や川端康成などが若い頃に出没したものだったが、多くの若い人が新い西欧文化に惹かれた。その頃の思い出を語った文化人は数多くいるが、その頃の浅草は今日では想像できないほど時代の先端を行く街だった。

それから太平洋戦争。関東大震災で浅草の大半が焼けたなか、よく守られた浅草寺境内だったが、1945年の東京大空襲では本堂や五重塔が焼け落ちた。そして、終戦後米軍の占領が解かれたあとも、浅草寺を含む公園一帯には、もとの賑わいはもどらなかった。特に若い人たちの足は、近くに大学などがないこともあって浅草から遠のき、銀座や新宿へと移っていった。

1 9 6 5 年頃には、「六区」で興行する店が閉まった(歌舞伎を上演する劇場は今もひとつある)が、テレビの時代の到来を反映して映画館もふるわなかった。現在も、休日の人出は多いが、以前のようではない。ちなみに、この辺のことは「浅草学」という独自の分野を持つほどに研究されているらしい。ある集会でその事実を披露したのは、会員らしき北欧の研究者だったが。

そういう浅草だが、外国人の旅行のあいだで人気があるというのが定評だった。それが、今は外国人観光客の数では新宿にかなわないそうだ。台東区の観光課も、この頃は新築の観光会館で三味線を演奏し、また観客にやらせるなど外国人目当ての誘致努力をしている。だが浅草が賑わうのは年の暮れや正月、ほおずき市など祭りの季節が中心だ。あとは浅草寺参詣の日本人観光客と「昔の日本」を求めてやってくる外国人観光客。浅草寺にしても、込み合うのは入り口の仲見世のあたりと本堂のまわりにとどまる。

(田中 幸子)

 

北米報知は、ワシントン州シアトルで英語及び日本語で地元シアトルの時事ニュースや日系コミュニティーの話題を発信する新聞。1902年に創刊した「北米時事 (North American Times)」を前身とし、第二次世界大戦後に強制収容から引き上げた日系アメリカ人によって「北米報知(North American Post)」として再刊された。現存する邦字新聞として北米最古の歴史を誇る。1950年以前の記事は、ワシントン大学と北米報知財団との共同プロジェクトからデジタル化され、デジタル・アーカイブとして閲覧が可能(https://content.lib.washington.edu/nikkeiweb/index.html)。