Home 食・旅・カルチャー 地球からの贈りもの~宝石物語~ 十力の金剛石

十力の金剛石

先日閉会したピョンチャン冬季オリンピック。金4、銀5、銅4の過去最高のメダル数。メダル数もさることながら、羽生選手の2大会連続金メダル。物凄い重圧を退けての、見事な連覇。国民栄誉賞に向けて動いているようだが、それも納得である。

今回はオリンピックメダルのような金という字は使っても、金剛石のお話。金剛という字をみて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。宮澤賢治の童話に「十力の金剛石」というものがある。初期のころの作品だそうだが、童話といっても結構字が細かくそれなりの時数がある。シンプルな内容だが、その中に潜む哲学は「星の王子さま」並みかもしれない。

王子と大臣の子のちょっとした冒険が話のバックグラウンドだが、宝石の名前やその表現が全編に溢れている。王子は太陽を見て「銀の鏡のよう」だと言い、大臣の子は「蛋白石の盤のよう」だと言う。蛋白石(たんぱくせき)と聞いて、あまりきれいな宝石を思い浮かべられないかもしれないが、蛋白石とは今でいうオパールのこと。王子は自分はもっと大きな蛋白石を持っているけど、もっと良いものを探しに行くということで、二人の冒険が始まるのだ。虹の足元にはルビーの絵の具皿があると大臣の子が言うと、王子は自分は黄色の金剛石はいいのを持っているけど、もっといいのが欲しいという。そして二人は虹を追いかけて森の奥へと進んでいくのだ。しばらく進むと、おとぎ話や童話ではよくありがちな異次元の世界らしきところに迷い込む。王子の青い大きな帽子の飾りだった蜂雀が動き出し「トパァズ、サファイア、ダイアモンド」と歌いだす。しばらくして、あられかと思ったパラパラと降ってきたものは宝石たち。何しろ表現が美しい。りんどうの花は天河石、黄色な草穂は猫睛石。葉は碧玉や珪孔雀石で、つぼみは紫水晶。霰玉の枝に実はルビー。そして空は磨いた土耳古玉。こんな風に、宝石のことを指しているであろう漢字を見るのはとても楽しい。降ってきた雨のみならず、見渡す限りの森の草木もが宝石でできており、カラカラとぶつかって音を奏でる。

読んでいて驚かされるのは、宮澤賢治の時代にも多種多様な宝石が知られていたということ。もちろん、作家として書く前に色々調べたはずだとは思うが、自分の童話の中に土耳古玉とはなんともハイカラな表現。土耳古玉はトルコ石だが、なんだかなぞ解きのようである。ストーリーに戻ると、宝石の雨はやんだのだが、蜂雀たちは悲しそうに「十力の金剛石が今日も降らなかった」と嘆く。王子が十力の金剛石とはどんなものかと聞くと、それがどんなものなのかつらつらと説明する。そして十力の金剛石が何かというなぞ解きは最後に明かされる。十力の金剛石は柔らかく降り注ぎ、それを浴びた全てのものが自然の姿になる。十力の金剛石とは恵の露の事。生命を運び、息吹を与える物が十力の金剛石の正体。金剛石の正体は分かったが、十力の正体が何者なのかは最後まで明かされない。おそらく、神や仏、全能の存在といったところであろうか。どんな宝石よりも尊いのが恵みの雨であり、豊かな自然であるというのが宮澤賢治が言いたかったことではないか。

宮澤賢治のほかにも「金剛石」という名の付く尋常小学校時代の歌がある。歌詞は明治天皇の妻である昭憲皇太后が作られたものだ。歌の冒頭が「金剛石も磨かなければ玉の光に及ばない」という意味である。2番の歌詞も、切磋琢磨しろという意味合いである。イギリスの産業革命がダイヤモンドの研磨に改革をもたらしたように、ダイヤモンドの存在がようやく一般人にも知られてきたころであろうか。宮澤賢治も昭憲皇太后も、ダイヤモンドがいかに美しいものかはわかっていたであろう。特に皇太后は自らがダイヤモンドを持っていた可能性は大いにある。しかし、その美しいダイヤモンドよりも自然であり、努力することが最も素晴らしいく美しいものであると、戒めにも似た教訓を教えてくれた。

(金子倫子)

金子倫子
80年代のアメリカに憧れを抱き、18歳で渡米。読んだエッセイに感銘を受け、宝石鑑定士の資格を取得。訳あって帰国し、現在は宝石(鉱物)の知識を生かし半導体や燃料電池などの翻訳・通訳を生業としている。