北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
筆者: 新舛 育雄
第15回 二世男子の柔道の隆盛
前回は二世女子日本見学団についてお伝えしたが、今回はシアトルで多くの二世男子が取り組んだ1938、39年頃の柔道の隆盛についてお伝えしたい。
柔道道場の設立
文献によると、1908年2月に一般青年の柔道修業のために、シアトル市に「シアトル道場」が設立された。開設当時の会員数は20名程度に過ぎなかったが、1928年頃には二世男子の柔道修得者が増加し、成年者85名、幼年者125名の、計256名となった。道場はこの頃ジャクソン街824番にあった。1932年には講道館長の嘉納治五郎氏がシアトルを訪れ「シアトル柔道有段者会」が組織された。シアトル市には更に「天徳館道場」もでき、シアトル市周辺のオレゴン州やカナダ州など「シアトル道場」を本部として周辺地区18カ所に道場ができ、1940年頃には会員数は約1000名に達した。
柔道大会の開催
シアトルでは1938年頃大きな柔道大会が3つあった。それは「シアトル有段者会主催柔道大会」、「天徳会主催柔道大会」そしてシアトル地区から選抜された柔道チームとロサンゼルス周辺のチームとの「南北対抗柔道試合」だった。これらの柔道大会に関する記事について紹介したい。
①シアトル有段者会主催柔道大会
シアトル有段者会主催柔道大会はシアトルで行われ、シアトル周辺地区の他道場も参加して大々的に行われた。その大会の様子を掲載した記事があった。
「第2回シアトル有段者会主催柔道大会」1938年1月22日号
「シアトル有段者会主催第2回柔道大会は明日曜日正午より日本館ホールで開催される。ベルビュー、ベンブリッジ、グリンレーキ、ケント、タコマ、ファイフ、シアトル、サニデール、天徳館、ワバド、白河の10道場が参加。優勝旗争奪戦、個人選手権試合、幼年組優勝試合を行ふが百十数名の選士が出場、白熱戦を演ずる筈」
「第4回有段者会主催柔道大会」1939年 11日30 日号
「シアトル柔道有段者会主催、第4回柔道大会は 参加道場12道場(ベンブリッジ、ベルビュー、ファイフ、グリンレーキ、イートンビル、ケント、シアトル、天徳館、サニデール、タコマ,ワバド)300数10余名の選士で、青年組優勝旗争奪戦、幼年組優勝試合、個人選手権試合、年齢別選手権試合の四大部門に分かれた大熱戦が演じられるが初日は午後6時より、二日目は正午より開始される。初日は宮沢保太郎氏の司会で始まり年齢別選手権試合が行われる。出場者は左の如し(9歳から18歳の出場者名掲載)二日目は幼年組優勝試合。(出場者は地区別に掲載)優勝旗争奪戦。(出場者掲載)最後に個人選手権試合が行はれる」
「明晩から柔道大会」1939年12月1日号
「有段者主催の柔道大会は愈々明土曜日より豪華な幕を切って落とすが二日目の、日商寄贈優勝旗争奪大試合に続いて行われる個人選手権試合は。大会の最後を飾る大熱戦であるが出場者は左の如し。(三段、二段、初段別に氏名掲載)二段の出場者名の中に吉田とあり、 『ジム・吉田の二つの祖国』の主人公のジム・ヨシダと推察される。本書によるとジム・ヨシダは1921年7月28日生まれで、この記事は18歳頃と思われる。
「有段者会柔道大会の結果」1939年12月4日号
「優勝旗争奪戦では、シアトル道場が31点で優勝した。又この柔道大会の個人選手権試合の結果は坂上三段が優勝しワシントン、オレゴン両州の選手権を獲得した」
②天徳館主催柔道大会
「天徳館父兄会役員」1938年 2月7 日号
「天徳館父兄会今年度役員は左の如し会長、寄田寿之介 副会長、田妻文四郎 幹事、川船和夫 同、有武太郎同、岩井栄四郎 会計、百田柳三郎 評議員、吉田龍之輔他26名」
評議員の吉田龍之輔はジム・ヨシダの父親である。
「天徳館主催で日曜に柔道大会」1938年 2月26日号
「天徳館創立十周年記念柔道大会は明日曜日正午、日本館にて開会されシアトル、タコマ、ファイフ、白河、ベンブリッジ島,ポートランド央武館、グリーンレーキ、ワバト、ケント、ベルビュー、サニデール、天徳館の12道場参加。浜氏の司会にて前野、有馬両氏の祝辞(有馬氏は所用ありて出席できず)坂田氏の挨拶があり、幼年少年組一本勝負、幼少年組紅白勝負、青年組一本勝負、有段者一本勝負、青年組紅白勝負が行われるが、過日初段への昇進者があったため有段者一本勝負の組合せは左の如く変更された。(一本勝負の出場者の組合せの氏名掲載)」
この組合せの中に吉田初段(ジム・ヨシダ)の名前があった。
「天徳館柔道大会」 1938年2月28日号
「この記事では天徳館主催柔道大会結果が詳細に発表された。天徳館の吉田初段は有段者一本勝負に出場したが、シアトル道場の加藤初段に敗退していた。
③ 南北対抗柔道試合
文献によると南北柔道対抗試合は、米国における最大の対抗試合としてその界の注目を浴び、その道の発展に多大の効果を挙げた。
「西北部の柔道選士は来る26日出発」1939年2月13日号
「第3回南北対抗柔道大会は愈々3月4、5日の両日、ロサンゼルスに於て開催されるので、西北部の有段者26名は来る26日、6台の自動車に分乗、当地を出発する一行はポートランド市経由、メドフォードに一泊、更にサクラメントに一泊して28日夕刻にはロサンゼルスに乗り込む予定である。帰途は金門大橋を見物するので選士一同は今から出発の日を待ち焦がれて連日猛稽古を重ねてゐる」
「南北対抗柔道試合一勝一敗の戦績」1939年3月6日号
「第3回南北対抗柔道試合は去る4、5日の両日、常夏のロサンゼルスで盛大に挙行され、大熱戦を演じ初日は七勝十二敗で敗れたが二日目は遠征軍が大勝した。第一日の結果は左の如し」(出場選士の名前と結果が記載)
出場選士の中に吉田克己はジム・ヨシダの日本人名で、第1日目は負けだったが、2日目には勝利した模様。
「柔道選士今夕帰沙(シアトル)」 1939年3月11日号
「シアトル道場では来る 24日午後9時道場にて南加遠征選士慰労と過般の南北対抗柔道大会慰労会で、父兄、道場員の出席を望んでいる」
このように南北対抗柔道試合はシアトル在住日本人にとって大変興味ある大会として注目を浴び、代表選手に大声援を送り健闘を讃えた。
ジム・ヨシダの柔道
『ジム・吉田の二つの祖国』の中にジム・ヨシダが柔道に励んでいたことが掲載されている。ジム・ヨシダはこの頃、フットボールに夢中で、父、龍之輔からの強い勧めで、始めはいやいや柔道をやっていたが、そのうち柔道が面白くなったことが書かれていた。丁度その頃の記事と思われる。1938年2月7日の記事で、父の吉田龍之輔が天徳会の評議員をしていた。1938年2月には初段であったジム・ヨシダだが、翌年2月には2段に昇段していた。ジム・ヨシダも天徳会に属し日本人名、吉田克己(当時18歳)の名前も確認できた。 筆者の父與は1929年に父、與右衛門の突然の死で日本へ帰国し、日本の旧制中学校と大学で柔道に励み、1936年6月に再渡米し1941年2月までシアトルにいた。この間に與は従弟にあたるジム・ヨシダと親しくしていた。柔道の稽古も一緒にやり、なかなか手ごわかったと当時の思い出を話してくれた。與は1938、39年頃に撮影されたと思われる、ジム・ヨシダが柔道着を着た写真(添付)と自身の柔道着姿の写真を所持していた。
「華大で柔道紹介」 1939年2月15日号
この記事ではジム・ヨシダが天徳会の代表として、ワシントン大学へ柔道を紹介し、大喝采があったことが記されている。
「去る12月11日夜ワシントン大学篭球軍とワシントン・エクート・カレッジ軍の試合が華大パビリオンにて行なはれた際、天徳館道場より吉田二段と小岩井初段が出場し、マイクの前に立った坂原氏の説明で柔道を紹介し、大喝采を博した」
嘉納治五郎の来シアトル
1938年3月8日号で当時東京オリンピック準備委員会の責任者だった嘉納治五郎はカイロ会議に出席のためアレキサンドリアに到着し、東京オリンピックは何が何でも開催するという強い意気込みを示す記事が掲載された。嘉納治五郎はカイロ会議終了後、帰国の途中にシアトルを訪れた。
「嘉納治五郎翁明朝飛行機で来沙」1938年4月18日
「国際オリンピック委員会のカイロ会議に日本代表として出席された嘉納治五郎は飛行機で明朝11時30分に来沙されるので、シアトル柔道有段者会では歓迎準備に就き打合せ中であったが、今朝左の如く発表された。
『19日到着後オリンピックホテルに宿泊、19時より有段者との座談会、20日午後リセプション、21日晩餐会、22日氷川丸で帰朝』」
「嘉納治五郎翁を迎え歓迎会と柔道大会」1938年4月21日号
嘉納治五郎歓迎会は昨夕7時玉壺軒にて開催され、
嘉納治五郎は大要左の如く訓話された。
『柔道は柔術を基礎にしたものであるが、ただ単に術を磨くのみでなく、一つの原理に基づいて研究したその原理を総ゆる方面に応用することである。只今諸君がやって居るのは、体を丈夫にし技術を覚えるためであるが、体を丈夫にする事は 一、体を健やかにし、二、体を強くして、 三、人生に役立たせる事でありいざと言ふ場合に人に勝つ方法であって物事に決して驚かない力を作るのであるから柔道は世界で最も優れたものであると信ずる。(中略)
幸ひ当地に居られる坂田、熊谷の両氏は立派な師範であるから、今後益々努力せられ度い』尚紅白試合の結果は左の如し(青年組と有段者で各々入賞者の氏名掲載)」
「報国更生団」について、1938年4月21日、22日号に講道館長、講道館文化会長の嘉納治五郎氏の詳細の解説の記事が掲載された。
「嘉納治五郎翁船中にて逝く」1938年 5月4日号
「我がオリンピック委員首席代表としてカイロ会議に出席、目下郵船氷川丸でシアトル経由帰朝中だった嘉納治五郎氏は、船中にて風邪にかかり治療中急性肺炎を起し、遂に東京時間5月4日午前5時23分逝去の旨同船より郵船本社に入電があった。尚氷川丸は6日横浜入港の予定である。嘉納治五郎氏は1860年播州の酒造家嘉納家の一族に生まれ、年少より柔術を志し、遂に講道館柔道を開始し今日に至っている。同氏は各学校長、文部省普通学務局長を歴任し、1922年貴族院議員に選出せられた。(中略)
今回カイロ会議の帰途、米大陸を飛行機で横断、シアトルに出で柔道大会に出席。バンクーバーより氷川丸に乗船。帰国の船中にて遂に不帰の客となった。享年78歳」
「嘉納治五郎翁遺骸今日横浜に着く」1938年5月6 日号
「帰国で船中急逝した我が国スポーツの父嘉納治五郎翁の遺骸乗せた郵船氷川丸は6日午後3時船尾の半旗も悲しく横浜港に静かに到着した。79歳の老身に鞭打ってオリンピック東京大会確保の為去る2月16日に元気よく東京出発、カイロでのアイ・オー・シー総会に日本首席代表として活躍、遂に東京大会開催確保に大成功を土産に国民挙げて歓呼の声に迎へらるるべき凱旋は、今は悲しい無言の凱旋となった」
慶応大学柔道部の来シアトル
「米国遠征の慶応柔道部選士」1938年6月7日号
「慶応柔道部先輩団たる柔友会では近来対米関係の悪化を懸念されているのに鑑み、在米の荒谷氏の斡旋で、母校慶応柔道部の米国遠征を挙行する事となり来る。6月23日の横浜発の郵船龍王丸で出発、7月7日サンフランシスコに上陸、約一ヶ月半に渡って米国西部地方の諸大学を歴訪。柔道を紹介かたがた、これを通して日米親善の一助となす意気込みでゐる。遠征団の顔ぶれは左の通り。団長、飯塚九段(以下学生氏名掲載)」
慶応大学柔道部一行はサンフランシスコからシアトルにやってきた記事が掲載された。
「慶応選士を迎え盛大な柔道大会」1938年8月8日号
「飯塚九段と慶応大学柔道部一行歓迎柔道大会は昨日午後3時日本館で開催されたが、入場者満員にて盛会であった。学生の労働季節として出場しなかった者もあったらしいが、農繁期にも拘わらず地方から多数の出場者があった。幼年組紅白試合では白軍が勝ち、青年組紅白試合でも白軍が勝った。それより各代表の歓迎の辞があり、続いて飯塚九段が柔道の原理に就いて形を示しつつ講演された。(以下取り組み選士名掲載)それより賞品授与が行はれ、12時過ぎに閉会された。尚一行は今朝11時道場を見学し、午後3時半よりワシントン大学にて柔道を紹介、それより領事館邸の茶会に出席する。明日は午前11時ホテルを出発し、ㇾニア登山、シアトルへ帰ってからは三田会主催の歓迎会に出席。明後日はラインスローにて一日を過ごす」
嘉納治五郎氏始め多くの日本の柔道家がシアトル二世男子に柔道を日本の精神修養として授けようとした。二世男子の多くが日本のスポーツ、柔道に興味を持ち、熱心に取り組んでいたことが記事から伺える。ジム・ヨシダもそのひとりだった。
次回はシアトル在住日本人が結束を計った県人会についての記事を紹介したい。
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
①伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1973年
②『北米年鑑』北米時事社、1928年
③在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年
④ジム・吉田、ビル・細川『ジム・吉田の二つの祖国』文化出版局、1977年
筆者紹介
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。
『北米時事』について
鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。