Home 食・旅・カルチャー 私の東京案内 東京右半分 2

東京右半分 2

築地にある都営魚市場を、荒川の東側にある豊洲へ移すという計画はかなり前からあった。ここへきて問題がいろいろあることがわかり、2017年初頭現在もまだ実現していない。実現すれば、東京都は船着き場を何か所かに造り、隅田川と日本橋川、港湾エリアを結ぶ水上航路を充実させるという。手始めに、築地大橋(勝鬨橋のすぐ南)脇の元市場跡に船着き場の整備をするそうだ。2020年に予定されているオリンピックのための晴海(中央区)の選手村にも、小型の観光船が着岸できる計画もある。つまり、小舟で川を渡っていた昔に近くなるわけだ。

隅田川沿いには、浅草、両国、佃、築地の四か所に「賑わいエリア」を整備するそうだが、浅草と両国はすでに小型遊覧船が運行しており、観光客で賑わっている(浅草からは「東京水辺ライン」、両国の国技館近くの桟橋からは「水上バス」として運行)。東京都の「舟運」アイデイアは、明らかにオリンピックの会場や選手村への便を念頭においたものだろう。昔ながらの風情を残す佃エリアは、整備せずにそのまま残してほしいところだ。(前出「佃島」の項を参照)

吾妻橋を渡って墨田区に入ると、すぐ目に入るのが「東京スカイツリー」。2011年末に浅草のすぐ東、歩いて15分ほどの押上に3年半をかけて完成した。周辺に高層ビルが立ち並び、港区芝にある「東京タワー」では電波が届きにくくなったためだ。浅草から北へと電車を走らせている東武電鉄が建設を担当し、400億円を費やしたという。土台は正三角形で、上に向かって徐々に円形に近づき、シルエットは見る角度によって異なる。色は灰色がかった白、高さは634メートル。「こんな美しい景色は見たことがない」と歌手のレディー・ガガは言ったとか。

スカイツリーは2,000人が入場できる展望台を持つ世界一高いタワーとして、ギネス世界記録に認定されている。しばらくは話題をさらい、開業1年半で1千万人が利用したという。隣接する「東京ソラマチ」には、わたしもよく利用する各種店舗をはじめカフェやレストランが集まる。プラネタリウムや水族館なども併設し、近辺の地域活性化を目指した。一方、地元の商店を圧迫しているという声もある。ちなみに、その前を流れる北十間川には遊覧船の船着き場があり、上野や羽田空港からはシャトルバスも出ている。タワーの5階には墨田区の観光課が案内所を開き、パンフレットや資料など充実しているから足を運ぶといい。

スカイツリーのある押上の地は、江戸時代には「村」であった。前述の「賑わいエリア」のひとつ、両国のその頃は、おそらく今よりも賑わう地だったろう。両国橋(当時は「大橋」) が墨田川にかかったのは1659年とかなり早く、この橋が神田や日本橋と押上の地を繋げる足がかりとなっていたからである。今の両国を代表するのは相撲の国技館だが、できたのはずっと後の1909年のことである。

「両国」という名は、武蔵と下総の国にまたがっていたからだそうで、その南に位置する「本所深川」は、元禄時代には江戸の新興住宅地だった。赤穂藩の浪士たちの討ち入り(1702)計画を知った幕府は、城の近くにあった吉良氏(仇討ちの相手)の屋敷を本所深川に移した。上野介ががっくりした理由がわかるが、討ち入りはこの移転で可能になったと見ることもできる。吉良邸の跡は「区立本所松坂町公園」となっている。現在は屋敷のごく一部を再現し、赤穂浪士が吉良の首を洗ったという井戸が残るのみだ。

今は東日本橋という地名になっている両国橋の西詰めには、火事に備えた空き地があった。「広小路」と呼ばれて見世物小屋などで賑わう場所だった。両国の花火は1732年に始まり、何度か中断の時期もあったが日本で最も古い。もともとは大飢饉の死者を弔い水神を祭る行事だったという。かけ声の「たまや」と「かぎや」は、川の上流と下流をそれぞれ受け持った花火師の屋号からきたもの。花火の華やかさが競われ、見物人が声をあげたのが始まりだ。花火祭りは江戸庶民の楽しみのひとつだった。歌川広重も花火の風景や両国橋をかいている。

江戸には火事がつきものだった。なかでも「振袖火事」(1657 年) の被害は甚大で、死者は10万8千にものぼったとか。その死者を弔うためにできたのが回向院。今もJR両国駅を出て南へ2分ほど歩き、京葉道路を渡った場所にある。広重の版画絵の「江戸名所百景」のひとつ、「回向院元柳橋」に描かれている。歌川広重『名所江戸百景』 両国花火当時は火事や地震による死者だけでなく、横死(ゆきだおれ)や刑死など、多種多様な犠牲者たちの回向を行っていた。今は動物の回向もしており、「オットセイの供養塔」などというのもある。かわいがっていたペットをここに埋葬する人は少なくない。ちなみに、鼠小僧次郎吉の墓もある。江戸時代には回向院境内で勧進相撲も行なわれた。

そこから遠くない南千住の地にある回向院に、われわれが名前をよく知っている人物、例えば吉田松陰や高橋お伝の墓がある。刑死者をつかって日本で初めて解剖(「腑分け」と言った)が前野良沢らにより行われたが、ここがその場。記念の碑が建っている。