シアトルに住む日系アメリカ人のファミリー・ヒストリーを探る第一弾は、北米報知インターンの長谷川美波がお届けします。シアトル大学の学友、シャーロン・イデグチさんと共に、イデグチ家の移民の歴史を、シャーロンさんの叔母さんにインタビュー。シャーロンさんによる英語記事はNorth American Postウェブサイトをご覧ください。
2017年9月、私は1年間の交換留学のためにシアトルに来た。東京で生まれ、21年間を家族と共に生活してきた私は、海外での長期生活は楽しみよりも不安のほうが大きかった。大学の授業では、内容を理解することもディスカッションで発言することもできず、毎日落ち込んだ。アメリカ人は皆フレンドリーだと感じたが、気軽に遊びに出かけるような友だちを作るのには時間がかかった。生活するので精一杯だった中でインターナショナル・ディストリクトを訪れた時、こんなにも日本の雰囲気を感じることのできる場所がアメリカにあるのかと驚き、懐かしさで胸がいっぱいになった。それと同時に、なぜこれほど日本の文化があるのだろう?と気になって仕方がなかった。北米報知でインターンシップを始めるまで、私は日系移民の歴史を何も知らなかった。
インターンシップを始めてから、過去の『北米報知』の日系移民に関する記事や本を読みあさった。その歴史を学ぶことは、これまで考えもしなかった自分とシアトルのつながりを感じられるような気がして面白かった。日系移民が始まってか ら150年の歴史はとても濃く、日系移民一人ひとりに苦労の歴史があるのだと知った。インターナショナル・ディストリクトを訪れる度に街の見え方が変わり、それぞれのファミリー・ヒストリーを聞くことは、留学中の楽しみのひとつになった。今回はシアトル大学で出会った日系4世の友人、シャーロンと共に彼女の家族の歴史をたどった。
シャーロンの曾祖父に当たるミヨシ・イデグチは熊本県出身で、15歳となった1914年、ハワイへ渡った。両親を亡くし、身寄りのなかった彼にとって、新しい生活を求めて渡米する決断に迷いはなかった。ハワイではパイナップルのプランテーション農園で働いたが、厳しい労働環境だった。水が整備されていなかったため、バケツを持って往復しながら水を運んだ。数年後、同郷のツヤと結婚。十分なお金を稼いだ後は日本に帰るつもりだったが、帰るだけの余裕がなかった。「せめて妻だけでも」と、ミヨシは働いたお金で妻を何回か里帰りさせた。しかしミヨシ自身は日本を離れた後、一度もハワイの島を出ることはなかった。
戦時中、ミヨシの息子であるヒサシ(シャーロンの祖父)は、第二次世界大戦末期からハワイでアメリカ軍に入隊した。ヒサシはリチャードと名乗り、アメリカ軍への忠誠を示すために日本語を使うことを止め、シャーロンの父親を含む子どもたちに日本語を教えることはなかった。ミヨシ一家は白人家族が経営するタケヤマ・パイナップル農園で住み込みで働いた。さらに、ヒサシやその兄弟の子どもたちは、学校が休みとなる毎週金曜日にはアメリカ政府が管理する「ビクトリー・ガーデン」に行き、兵士のために豆やジャガイモなどの野菜を収穫した。
私の友人であるシャーロン・ミヨシ・イデグチは日系4世にあたり、現在シアトル大学でビジネスと日本語を勉強している。父の仕事の関係で両親がハワイからシアトルへ移住し、タコマで生まれ育った。家庭での会話は英語。日系アメリカ人の父とアイルランド系アメリカ人の母を持つ。それでも、家族から日本の伝統や文化の影響をたくさん受けて育ってきたため、日系人としてのアイデンティティーを大切にしていると、シャーロンは話す。好きな食べ物はカツ丼と天ぷら。正月にはおせち料理を食べるのが好きだという。日本にはまだ行ったことがないが、高校生の頃から日本語を勉強し始め、来年からは東京の大学へ交換留学をする予定だ。「日本に行ったら、熊本県に行って家族が住んでいたところを見てみたい」。彼女はそう言って目を輝かせる。
シアトル大学では多くの日本のルーツを持つ友人に出会った。私の世代では3世や4世が多く、日本語を話す友人は少ないが、日本について質問をしてもらったり、日本に行きたいと言ってもらえたりすると私もうれしくなる。言葉の壁がある中でも、特に若い世代の間で日本人と日系アメリカ人がつながる機会が今後増えることを願う。友人たちから内情を深く聞くことはないが、マイノリティーの日系アメリカ人として悩んだこともあっただろう。日系移民のストーリーを共有することが、まずは第一歩だ。
(長谷川美波)
シャーロンさんによるイデグチ・ファミリー・ヒストリー記事を英語で読む:
https://napost.com/dragon-in-seattle-ideguchi-family-history/