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永井荷風の足跡を辿って-東京右半分10~日和下駄~

隅田川の左側、つまり東京の右半分を、その地を愛した永井荷風の足跡を辿りながら案内してきたこの連載。最後にもういちど、永井荷風の「日和下駄」に戻りたい。

生涯続いた荷風の散策は、身近な銀座や浅草から始めて東へ東へと足を延ばしていった。荷風自身が育った新宿区の大久保界隈や、欧米から戻って住んだ麻布・六本木界隈なども観察している。荷風は「日和下駄」に「一名 東京散策記」と副題をつけた。この散策記は、「今日に至る過去の生涯に対する追憶の道」と荷風が記としているように、消えゆく在りし日の東京への哀惜でもある。

「日和下駄」の内容は、「樹」「寺」「水」「路地」「崖」それから「坂」と分かれているが、それらを通じて荷風は消えゆく古き日々を追憶した。「もし今日の東京に果して都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素を樹木と水流に俟つものと断言する」と荷風は記し、「山の手を蔽う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝」と言い切っている。

「樹」「寺」

荷風が散策した頃の東京山の手には老樹がかなりあった。外出の道すがら「九段の坂上、神田の明神、湯島の天神、または芝の愛宕山」など、高台に登って市中を見渡すと、際限なくつづく瓦屋根のあいだに「あるいは銀杏、あるいは椎、樫、柳なぞ、いずれも新緑の色鮮なる梢に、日の光の麗しく照添うさまを見た」といい、「東京の都市は模倣の西洋造と電線と銅像とのためにいかほど醜くされても、まだまだ全く捨てたものでもない。東京にはどこといって口にはいえぬが、やはり何となく東京らしい固有な趣があるような気がするであろう」と書いている。私も、東京のなかを歩いてみて、大都会としては樹が多いと感ずる。それで救われた気がする。

今の東京は、もちろん荷風の見たものではないが、その面影を感じることはできる。長い「出世階段」を上るとそこに神社がある愛宕山は、東京にある自然の山としては一番高い。荷風がかつて散策した場所として私が案内してきた寺社の境内は、敷地も墓地も割愛されて狭くなったものは多いが、それでも街中に樹を残す場所になっている。荷風の頃にはあちこちに残っていた各大名の広大な屋敷跡は、そのいくつかが公園として残され、生い茂る樹々も残っている。

「水」

荷風の頃にはまだ、足のかわりをする渡し船があった。和船で、年寄りの船頭が樫の櫓や竹の竿をあやつっていたはずだ。木造りの和船を今の時代に見ようとすれば、門前仲町の商店街有志が、近くにある水路を観光用に運航させているものがある。両岸の桜を水上から鑑賞しようというわけで、春には江戸の人たちがやっていたのを同じことを試みている。

「路地」

今では東京からほとんど消え去った「路地」。「表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自ら彼らの棲息に適当した路地を作った」のだと荷風はいい、地図にもなく、その土地に長く住む住民の間にのみ知られる「都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地」だと表現する。そしてだからこそ、「夏の夕は格子戸の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある・・滑稽の情趣を伴わせた小説的世界」とも言っている。

まだに残っている数少ない東京の路地を実際に歩くと、なるほど同感する。「平民」と「表道りの人間」のあいだの差がなくなったのはいいことなのかもしれないが、街角を散策する者にとってさみしいのは、路地にみられた生活者の息吹が、今はなかなか感じられないことだ。

「崖」

荷風のいう「閑地」は、東京はおろか日本の大都市にはかなり前から見られなく、だから子供たちの外遊びの場がなくなった。「崖」にいたっては、かなり歩きこまないとその跡さえ発見できない。建築工学の発展で、崖の周りにも家が建てられるようになったからだろう。だが、文京区の小石川のあたりには、石段を上がったり下がったりしなければならない場所がいくつかあり、その階段は崖を崩して造られたものと想像できる。崖があったとしても、そのてっぺんから何かが見えるわけではない。荷風の頃の散歩とは様子がかなりことなるわけである。

「坂」

その反面、「坂」は昔のままに現存するものが多い。そして、今もその頃の名前を残している。行政が名を記した立札を見て知ることがほとんどだが、地図を見ると「坂」は主に「左半分」にずいぶんと残っている。東京の「左半分」に坂が多いことに散策していると気がつくが、駿河台、麻布台など「台」の名がつく地名があれば、その周辺には坂がある。坂が楽しいのは、例えば「暗闇坂」や「聖坂」のように、その名前から在りし日のもろもろに思いをはせることができるからだ。「神楽坂」は街の名前にさえなっている。

高低のある地形はその場に面白さを添えるものだが、加えて、その名から歴史的エピソードの断片など何かを想像できるとすれば、散歩者にとってはおまけのようなものだ。「富士見坂」など、坂が富士の展望と切り離せない点も面白い。葛飾北斎の「富獄三十六景」のうち、富士が眺められる場所が十数か所あるが、東京でも山の手なら富士を望むことのできる場所はいくつもあった。荷風が「日和下駄」を書いた頃には、湯島聖堂の門前をすぎて御茶ノ水を望む通りの高いところから西を望むと、富士が見えたという。それから今日までずいぶん長い時がたったわけだ。

 

N.A.P. Staff
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