文=田中 幸子
2013年秋のある日、歌舞伎町へ行ってみた。駅の東口を出て目の前の明治道りを渡ったところに量販店「ドン・キホーテ」がある。その脇に「歌舞伎町一番街」の極色彩のアーチがあり、それをくぐってしばらく歩くと交番が見える。「この頃は何か危険なことがありますか」と、その前に暇そうに立っている若い巡査に聞いてみる。今の問題はポン引き、つまり強引な客引きだという答えが返ってきた。特定のバーやクラブへ強引に客を誘い、客が店を出るときに法外な金額を支払わせる。そういう詐欺まがいのことがここ歌舞伎町ではよくあるとのことだった。
「外国人観光客からの苦情は出ていますか」と聞いてみる。それはないという答えで、とするとポン引きのターゲットはうぶな日本人客らしい。ただしポン引きする側をみると、通行人に声をかけている黒人男性が、流ちょうな日本語で客を誘っていた。ある店頭に置いてあるビラ広告を見ると、そこには「迷わずココへ」などガイドブックにあるような文句が並んでた。
飲食店に挟まれて、「お休み」用のホテルがいくつか目につくが、わたしの目の前に大きなスーツケースを引きずった韓国人らしい若いカップルが歩いていた。そして、彼らは「休憩三時間、3000円、午後11時から朝6時まで6000円」という看板の出ている処へ入っていった。一見ふつうの宿屋に見えるそのホテル、だか間違えているのではないかと気になり客を装ってフロントを覗いてみる。二人は日本語はダメながら話は通じた様子で平然とエレベーターへ向かった。状況がつかめず、少々混乱したが心配することはないらしい。
歌舞伎町はよくわからない、と思いながら私はしばらく歩きまわった。歌舞伎町とはいえ昼間のこと、ちょっと見には普通の繁華街とあまりかわりない。20歳前後のお兄さんたちが4、5人佇んでいるのに遭遇。みなりゅうとした黒い背広姿で、昼間から何をしているのだろう。「この辺でお昼食べるとしたら何がいいのかしら」と声をかけてみる。「ラーメンが多いっす、ここは」。しばらく顔を見あわせていたが、ひとりが答えてくれた。
そのあともう少し歩いて中華料理屋を見つけ、中国語がウエイトレスと台所のあいだで飛び交う狭い店でランチスペシャル食べた。本格的麺料理でおいしく、しかも安い。歌舞伎町の隠れた一面を見た気がした。表道へ出れば「ベストウエスタン」ホテルもあることだし、ポン引きに引っかからない用心さえすれば、今は歌舞伎町は安全らしい。外国人旅行者でも心配することはないのだろう。
外国からの観光客が多く訪れるということで、よくメデイアで取上げられるのが新宿にある「ゴールデン街」だ。歌舞伎町から近い。1960年代から70年代にかけては、ジャーナリストや作家や芸術家、映画人が出入りする場所で、「いちげん」の客は入りにくかったものだという。
ゴールデン街の前身はいわゆる「青線地区」である。つまり、1958年に成立した売春禁止法で廃業を強いられた娼婦たちが「自営」という苦肉の策に出た場所である。ごく狭く貧相な店舗が長屋のように横並びに続き、場所の階下では酒を、二階ではその後の商売をやった。その頃は700円で一晩過ごせたうえ、朝食まで食べさせてくれたと証言する人がいると、どこかで読んだ。古きよき時代のことだ。
「青線]や「赤線」地区だった場所が飲み屋街に変わることはよくあったそうだ。「居酒屋文化」について著書のあり、日本在住歴の長いマイク・モラスキー氏によると、赤線地区は派手な色の看板をかかげる「スナック」街になり(吉原があった辺りへ行くとわかる)、青線の引かれた場所は間口の狭い二階建ての小料理屋やバーの集まる街になることが多かった。
せいぜい20㌳平方の狭いバーがいくつも並んでいるのが今のゴールデン街だが、ずいぶん前から営業している人もいるという。そんな昔を懐かしむ昔客に言わせると、その頃のゴールデン街は「誰でも受け入れる用意のある」ような場所だった、居心地のいいスペースだったという。わたしはふと思うのだが、現在の外国人観光客のあいだの人気は、ゴールデン街がその頃からの伝統を引き継いで今に至っているからなのかもしれない。