Home 食・旅・カルチャー 私の東京案内 四谷から新宿へ 2

四谷から新宿へ 2

 北を文京区、南端を港区と渋谷区に接する新宿区の地形はほぼ四角形である。そして、四ツ谷駅をまたいで西へ延びる新宿通りが甲州街道と名を変える地点に新宿駅がある。江戸時代の甲州街道筋には宿場があり「内藤新宿」といった。その宿場のあたりが江戸郊外と田舎を分ける接点にあたり、旅籠が約50軒もあった。そこには「飯盛り女」と呼ばれるウエイトレスであり娼婦でもある女たちがいた。新宿に今もある一種の「がらのわるさ」はこの頃からのものかとも思う。とくに歌舞伎町のあたりは「おっかない」場所という印象が持たれていたものだ。
その反面、駅近くには新宿御苑という広大な庭園・緑地がある。ぐるりと塀で囲まれ、新宿駅から歩いて10分ほどの新宿門から、入場料を払えばいつでも入るころができる。60㌶もの広さのこの御苑のなかには、いくつかの池、日本庭園や「イギリス風景式」庭園、大温室などがあり、大小の木々が2万本もある。外の喧騒をよそに静かで平和な空間を保つ都会の別天地である。
新宿御苑は江戸時代には、内藤家の屋敷の一部だったところだ。明治維新後は皇室の庭園となり、そして第二次世界大戦後になって一般公開された。ここに来る人は、散策する人や写生を試みる人、昼食と昼寝を楽しむ人などいろいろだが、都民の憩いの場としてまことに貴重な存在である。遠くに臨むビルの頭を見ないかぎり、それが大都会の真ん中にあることを忘れさせてくれる。
新宿は日本の高度経済成長とともに更なる発展を遂げた街で、その以前から私鉄二社(小田急線、京王線)が乗り入れていた。東京の西へと郊外を作り出す役を果たし、新宿駅を利用する客はその後も増え続けた。通勤通学者以外にも、デパートをふたつ(小田急、京王デパート)駅内に抱えており買い物客も多い。駅周辺の繁華街に娯楽の目的でやってくる人もいて、巨大な駅構内はいつも人であふれている。人出の数は東洋一と聞く。
わたしが大学生の頃(1950-60年代)、新宿はすでに一大繁華街だった。駅東口から近い紀伊國屋書店(今も同一場所にある)で本を買い、近くの風月堂でお茶を飲む。それが知識階級人の日常に組み込まれていた。武蔵野館をはじめ映画館もいくつかあったが、なにより大小さまざまな喫茶店が大通りや裏通りを飾っていた。
郊外に住む人たちは、喫茶店で人と会うなどの用事をこなしたものだが、われわれ学生はコーヒ一杯で何時間もねばって話し込んだ。その頃の喫茶店は、大東京の住人が自分たちの「ウサギ小屋」(家の狭さ貧しさを欧米メデイアが皮肉って言った)を出てくつろぐ「居間」でもあった。コーヒー一杯に払う代金は場所代であった。
1960年代末の安保闘争(第一次)の頃の新宿は学生であふれ、もっと広く若者たちの街でもあった。政治闘争の時代が終わると、反体制的、前衛的なものを上映する「アングラ劇場」が出現し、「ヒッピー」とか「ハップニング」などの言葉が聞かれた。「フォーク喫茶」があり、フォークミュージックがはやった時代だった。「歌声喫茶」というのもあり、客は酒をすこし飲んでみんなで歌を歌った。
新宿の街が完全に反体制化したころには「フーテン」とか「ハレンチ」などという言葉があふれ、1966年には駅西口地下広場で「反戦フォーク集会」があった。機動隊が出動しガス弾が打ち込まれ、「新宿の時代」はこれをもって終わったようだった。                                        (田中 幸子)