シアトル地域でラジオ放送が始まったのは1921年。そんな中で、日本語番組や日本音楽番組などの日系ラジオ番組も放送されるようになった。北米で最初に日系ラジオ番組が定期放送されるようになったのはカリフォルニア州オークランドで1927年のこと。翌年1928年にはシアトルでも開始され、その後にサンフランシスコ、ロサンゼルス、サクラメント、バンクーバー、サンノゼ、エルセントロ、バイセリア、ワトソンビルと続いた。1930年の米国国勢調査によれば、当時の日系人人口はワシントン州全体で1万7087人、シアトル市内で8134人。広告効果は限られているが、日系同胞に向けてスポンサーがついて、いくつかの番組が行われた。本号から4回の連載で、そうした番組を紹介する。
筆者:平原哲也(ひらはらてつや)
第1回 日本語放送前史
日系音楽家の活躍
日本語番組が始まる前には、アメリカのラジオ放送に出演して活躍する日本人音楽家がいた。早いものでは、1922年3月にサンカルロ・オペラ団の一員としてシアトル公演中のソプラノ歌手である三浦環がラジオ出演したとハワイの新聞が報じている。シアトル地元紙での報道が見当たらず、その真偽はわからない。確かなのは、「シアトルが生んだソプラノ」と呼ばれた声楽家だった名取みよしが1924年以降に、KFOA局の専属歌手としてしばしば歌声を披露したことである。
名取みよしは、北米時事の杉町八重充記者と結婚して杉町性を名乗り、マダム・スギマチとして広く知られるようになる。KFOA局は、ダウンタウンのユニオン街と2番街の角にあったローズ百貨店(Rhodes Department Store)が経営したラジオ局で、店舗の4階にスタジオを設けて1924年3月に開局した。同局は日本人音楽家にスポットを当てた番組をいくつも企画していて、上杉定(バイオリン、1924年出演)、藤原義江(テナー、1925年出演)、佐藤時太郎(ハーモニカ、1928年出演)、アグネス宮川(ソプラノ、1928年出演)らが出演した。1925年11月には、オリンピック・ホテルで開催された宮崎申郎領事代理主催の明治節レセプションの中継も行われ、日米国歌演奏と宮崎領事代理やシャンク日本協会長の挨拶が放送された。また、1927年にはジャパニーズ・プログラムと題する杉町みよし他が出演する日本音楽番組が数回にわたって放送された。
KFOA局以外でも、栗原花枝(ソプラノ、1927年出演)、エリザベス雀部豊子(ソプラノ、1928年出演)、坂野二郎(バリトン、1929年出演)らがKOMO局やKOL局に出演した記録が残っている。
KJR局の日本向け試験放送
ラジオ放送が始まったばかりの1920年代前半には、ラジオの電波がどこまで届くのかよくわかっていなかった。やがて、シアトルの放送が東海岸でも聞こえることが分かるなど、予想以上に遠くまで届くことが分かってきた。それではヨーロッパでも受信できるのかということになり、東海岸から試験放送が繰り返されて、大西洋横断による遠距離受信が確認された。次なるターゲットとして、ラジオ電波の太平洋横断が試みられた。最も有名な試みが、1924年8月と11月に行われたカリフォルニア州オークランドKGO局によるもので、はるか彼方の日本でもその信号が受信され、大成功を収めた。
そんな潮流に刺激され、シアトルKJR局も日本向けの試験放送を企画した。送信機の出力が1kWに増力された機会をとらえて、1925年1月27日午前1時半および2月17日の午後10時に試験放送が行われた。茨城県平磯にある電気試験所分室でこの電波を受信すべく待ち構えていたものの、キャッチすることは出来なかった。
5kWの送信機の導入後、KJR局は再度の試験を1927年6月12日午前0時から4時間にわたり行った。この放送は2部に分けられ、第1部はKJR局の常連出演者によるジャズやノベルティ・ピアノの演奏が流された。午前2時からの第2部では、特別に日本語番組が編成された。その内容は、日本領事館の協力のもと、北米時事社とシアトル日本協会(現ワシントン州日米協会)が出演者のアレンジを行ったもの。川村博領事および日本協会会長の桜内篤弥(横浜正金銀行シアトル支店長)の挨拶、アメリカ遠征試合を行っていた早稲田大学野球部引率者である高杉瀧蔵教授によるアメリカのスポーツについての講話、杉町みよしによる「蝶々夫人」「からたちの花」等が放送された。これが、シアトル初の日本語放送である。
シアトル・デイリー・タイムズはこの試験放送を「特別番組を日本で聴取」と報じているが、邦字紙では領事館情報として、「空中電気に妨げられ東京で受信できず」(大北日報1927年6月13日号より)としている。中波放送の遠距離受信は不安定で、たまたま当日の電波状況がすぐれなかったものと思われるが、後日別の機会にはKJR局の電波が日本で受信確認されていることを付記しておきたい。
次回は、中村時計店がスポンサーとなった「日本音曲放送」などを取り上げる。
筆者紹介
中学生の頃から外国の短波放送を受信する趣味を始める。ラジオ全般の歴史にも興味を持ち、近年は南北アメリカ大陸で放送されていた日系移民向けラジオ番組の歴史について調査している。2020年に北米大陸で戦前に行われていた番組を紹介する『日本時間(Japan Hour)』を自費出版。本連載は、同書よりシアトルに関連する内容を抜粋したもの。