筆者:天海幹子
1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、シアトル市近辺の11万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「NO-NO BOYS」と、志願兵「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を毎月シリーズでお届けする。
「平等と公正さ、それが僕にとっては考え方の出発点になっているんです」と語るポール・ホソダさんの土台には高校時代から触れていたキリスト教の思想がある。「神の下では全ての人間は平等である」と強く信じるホソダさんの傍らには、48年連れ添ったメアリー夫人が微笑む。2人はホソダさんが除隊後通い出した、シアトルのブレイン・メモリアル・合同メソヂスト教会で知り合った。「最初は女の子を探しに行ったんですよ。教会は人に出会うにはもってこいの場所だから」と照れながらも、現在も2人は教会での奉仕に深く関わり重要な存在を示す。ホソダさんの「正義」がキリスト教の思想に後ろ盾されて信念となるには、17歳からの軍隊の経験が大きくものをいう。
アイダホ州南東で生まれ育ったホソダさん家族は収容所体験はない。父親はレストランを経営していたが、日本軍の真珠湾攻撃後は店を貸し、ひっそりと暮らす。当時ユタ大学1年生だったホソダさんは、間もなく軍隊に志願したが、「敵国人」という理由で日系人を受け入れる軍隊はどこにもなかった。コックとしてなら軍隊にはいれるかとも思い、料理学校に通い始める。
43年に法の規制が変わり、7月ホソダさんは442部隊に入隊を許可され、ユタ州フォート・ダグラスからミシシッピー州キャンプ・シェルビーでトレーニングを受けた。このキャンプで442部隊が編成されたのだが、上層部を除いて全員日系人の部隊でホソダさんは予期せぬ問題に突き当たる。「中に入ってみると、同じ日系人でもグループに分かれていて、僕ら、所属するグループのない者たちはよそ者扱いで、打ち解けるのに時間がかかりました」とホソダさんが語る様に、出身地によって4つのグループが対抗していた。ハワイ州からの軍隊経験無しの日系人、カリフォルニア州の都会から服装、生活態度の一見派手な日系人、ノースウエストの各収容所から来た、親戚、知人を通して互いに顔見知りの日系人、その他がホソダさんの様に収容所経験のない者がアメリカ至る所から集まった日系人だった。特にハワイ人の英語の発音、ランクの上下など本土対ハワイの衝突が多かった。ところが「一度戦闘に入ると全ては変わりました。生死を分かち合った後は、真の兄弟です」と微笑む顔には確信が見える。
44年7月、ホソダさんはF-Company、BARマン(ブラウニング・オートマチック・ライフル隊)としてイタリアに上陸。戦闘に入り1カ月後、ベルベデーレから北上しチェチーナ川の北の辺りで爆撃に合い、ホソダさんは頭部に負傷をし、気を失ってしまう。「多分、140と名の付いた丘(Hill 140)の辺りだったと思うのですが。さあ、どのくらい入院したんでしょう。大連隊がフランスに移動した頃まで入院していたかな」と記憶はあまり定かではない。退院してからはナポリの輸送部隊に移され、その後メリーランド州フォート・ホラバードで終戦を迎えた。
「そのころ、変な噂が蔓延していてね。442大連隊から2、30人がいたんですが、全員が日本軍の兵士の格好をして、『日本兵はこんな格好をしてる』と見世物の様に歩き回されるとか、『日本兵はこんな臭いがするんだ』と犬のトレーニングに使われるとか。結局噂で終りましたけどね。差別のあった時代でした」と回顧する。
46年に除隊した後もホソダさんは予備軍に残る。「次に戦争が起こった時には少しでもいいホジションにいたかった」という理由で50年の朝鮮戦争にそのまま参加した日系人はホソダさんばかりではない。53年には戦闘技師からMISとして捕虜の尋問係、後に日本に派遣され1年間、米兵と日本婦人の婚姻申請の審査に加わる。アメリカに帰ってからは、ホソダさんのこれまでの人に対する公正さを買われて、退役するまでフォート・ルイスのCIC(Counter Intelligence Corp)諜報部(主に日系人対象)に所属する。CICは軍隊の職に応募した申請者がふさわしいか、信頼できるかなど、バックグラウンドを審査し、推薦する部門だ。
引退した今、日系人と関係した過去を振り返ってみて、ホソダさんは戦時中のすべての日系人の態度に感銘を受け、誇りに思う。従順だった一世たち。彼らは落胆したり失望したりしても、日本人に恥を塗ったり、迷惑になることはしなかった。収容所から出て、外で仕事をした日系人は良く働くという評判を作り、入隊した日系人は「敵国人」という目で見られながらも、文句や自己主張せず、信頼できる兵士となった。「NO-NO BOYS」を含む収容所で生活を余儀なくされた人たちも、公正な公判を受ける機会がないにもかかわらず我慢強かった。「当時の日系人のそれぞれの行為が、政府の偏見や人種差別が間違っているということを証明したんです」。ホソダさんはさらに、日系人は市民、移民に関係なく、従順な、良い市民であるということを証明したからこそ、現在があると強く信じる。その証明無しに、ただ権利の要求をしても空論に終ってしまう。「誰かが持って来てくれるのを期待しちゃいけない。自分で証明して、それから獲得すること」の大切さを説く。
それら日系人の選択肢の中で、ホソダさんが出兵を選んだのは、「日系人は他の移民と同じ様に信頼できる人種であるということを、移民になれない両親のために証明したかった」と言う。戦後やっと両親も帰化できることになり、北西部で第1回目の帰化移民の1人となった。
戦争を通しての軍隊体験でホソダさんは、人間としての尊厳を持って生きていくには、人種に関係なく互いに理解し合い、それぞれの信念、信仰を尊重し、共存する事を学んだと言う。キャンプ・シェルビーでの同じ日系人にしても、違った行動の背景にあるもの、それを理解しないで自分の意見、主張を通そうとすると争いがおこる。ましてそれが国家間で行われることが戦争につながると言う。「今までに(アメリカは)戦場として大規模な死傷者、町の破壊、飢餓などを目の当たりに見る機会がなかった。2001年9月11日が戦場を思い起こさせる日だった。復讐によって被害を受けるのは兵士だけではない。みんなが苦しむんです」
「僕は平和愛好者かもしれない。でも平和を求める僕の生き方を否定されたら、僕はそれに対して抗議をするでしょう」と、自分の立場に固執する構えだ。だから逆に他人の気持ち、意見も尊重しなくてはいけない。これがホソダさんの公正さの根本だ。そしてそれはキリスト教の「ゴールデン・ルール(自分が扱われたいと同じ様に他人を扱いなさい)」に見られる。「いや、どんな宗教だって言っていることは大体同じだと思う。バイブルにしてもコーランにしても、互いにやさしくありなさい。互いをそのまま受け入れることなど。いくら解釈や訳し方が違っていても、神の下にはみな同じ人間なんだから。それはね、神様からのありがたいギフトなんです」
「ホソダさんの信仰は戦闘中、助けになったか」の問いに、「Fox Fall(蛸壺壕)にはね、無神論者はいないんです。今生きるか死ぬかは、僕たち人間のコントロール下にないってことをみんな知っているからね」という答えが返ってきた。