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エディー (英義)・堀川さん ~静かな戦士たち 3

100歳を迎えられた堀川さん

雄生流池坊の生け花を日本で学び、生け花インターナショナルのメンバーとして夫婦でシアトル地域での華道普及に努めてきた堀川さん。2020年8月14日に100歳を迎えられ、二世退役軍人会と妻の徳禧久さんが、自宅前でドライブスルー形式の誕生会を開催しました。現在は、読書をしたり、テレビを観たり自宅で静かな毎日を過ごされています。

筆者:天海幹子

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、シアトル市近辺の11万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「NO-NO-BOYS」と、志願兵「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を毎月シリーズでお届けする。

「大戦後のヨーロッパで子供たちが食べ物をせびりに来るんですよ。なべを持ってね。白人の兵士たちは(子供たちを)邪険に扱ったり、目の前でわざと残り物をゴミ箱に捨てたりしていたけれど、僕たち二世兵士は1人1人に少しづつ分けてあげました。アメリカの収容所にいる(日系の)子供たちだと思ってね」と堀川(エディー)英義さんは語る。入隊前パインデールの仮収容所で200人の子供たちにアートを教えていた堀川さんは、戦争が子供たちに及ぼす影響を目の当たりに見ている。「子供たちが悪さをするのを防ぐのが目的だったんですがね、僕自身とても充実した時期でした」と回顧する。

堀川さんはシアトルの旧日本町生まれ。父親は8人姉妹の家計を助ける為に1890年代、関西地方からカリフォルニア州サクラメント付近の農場に出稼ぎに来る。一時帰国し結婚してからはシアトルに移り、一流ホテルのコックとして勤める一方、当時のフジ・ホテルの1階、現在のブッシュ・ホテル南側ヒンヘイ公園にホリカワ・ハードウェアー・カンパニーを開く。「6番街とキング街あたりのシバタ・アイスクリーム屋の地下には餅工場があってね。アイスクリームや餅を食べたり、向かいの映画館ではカーボーイの映画にタダで入れてもらったりしました。たまに切符切りのおばさんに『バッド・ムービー(成人向き)』と言って、追い出されたりしてね」と幼少の頃は楽しい思い出が一杯だ。

堀川さんの自宅に飾られる、兵役時の写真

17才の誕生日の前日、父親が心臓麻痺で急死、3年後には母親も肺炎で死亡。店はパートナーのタシロさんに渡った。

太平洋戦争勃発でカリフォルニア州パインデール収容所に送られ、その後ツーリ・レーク収容所に移る。アメリカ軍入隊に関しNO-NO(否定派)とYES-YES(肯定派)に分かれ大論争の中でYESを選び志願したのは父親の「アメリカ人なんだからアメリカに忠誠を誓い、大統領に従いなさい」という遺志を尊重したからだ。ところがソルトレークの徴兵センターでの健康診断で落ちてしまう。近眼という理由だ。収容所に戻るが、NO-NOとの衝突を考慮した軍は、堀川さんをワイオミング州のハート・マウンテン収容所に送る。そこで石炭の配布係としてトラックを運転し、時には歩けない老人の家の前に内緒で石炭を置いていったりもした。

その後シカゴの某技術系学校に通い始めると、そこで徴兵にあう。管轄のミルウォーキー州の健康診断では無事通過し、1944年6月、442部隊に入隊。ミシシッピー州キャンプ・シェルビーでは炎天下日陰でも118度(摂氏48度)にもなる。トレーニングの25マイル・ハイクはきつかった。自分の体重と同じ重さの荷物を背負い歩くが達成する人は殆どいない。堀川さんは20マイルで倒れた。

「前に志願した時は目が悪く落とされたのに、ここでは射撃の訓練をさせられました」。十中八九の割合で、命中率が良かったため、ライフルマンとしてKカンパニー部署の所属が決まった。

堀川さんの部隊は44年11月、スコットランドのグラスゴーからヨーロッパ入りした。最初の任務はフランスの東部で夜のガードだった。雨の中見張りをしていた時ドイツ兵の声がしたと思ったら、すぐ付近のトラックが爆破し足に激痛が走った。血が流れているのを感じたがその場を離れるわけにも行かず、司令官に報告した後、前線応急手当所に向かった。この時の負傷は名誉としてパープル・ハート勲章に結びついたが、現在も杖に頼る。

12月の戦場は寒く、戦場の所々に凍死したドイツ兵が見られた。「冬物のコートとかブーツが遅れていて、足に凍傷を追うものが続出」したが南下を続け、1月にはイタリアで第1、2部隊と合流。ハイウェイ65沿いのドイツ軍を攻め続け、フローレンス、ピサなど小都市を次々と解放した。

堀川さんは以前の負傷で片足を引きずっていたが、再度ライフル隊の軍曹に任命され一団を引き連れ丘を登る途中にドイツ軍に攻撃され、失神してしまう。「放り投げられて残骸の下敷きになっていたようで、引き千切られたドッグ・タッグ(兵士が首から下げるIDタグ)だけがみつかったんです。皆私が死んだものと思って、荷物を処分しようとしていたそうです」。後で白人に助けられ、ボローニャの病院に運ばれたが二世部隊に再会するまでは、軽い記憶喪失のため自分でも誰か分からなかった。これが2つ目のパープル・ハート勲章の所以だ。

終戦が近づくに連れドイツ兵が降参する機会が多くなり、捕虜と接すると13、14才の子供だったりする。「私たち二世兵士はジュネーブ条約(戦争犠牲者の保護を目的として1864年ジュネーブで締結した条約)のルールに従い、捕虜には思い遣りを持って人道的に対処しようとしました」。夏には広島と長崎に原爆が落とされた情報が入った。

終戦と伴に日本語の分かる二世兵士にMIS(軍情報機関)の勧誘が始まり、日本語のレベルが高いと評判のあった、「イシイ・ガッコウ」出身の堀川さんも誘われたが断る。1946年4月、ワシントン州フォート・ルイスから名誉除隊(Honorable Discharge)する。

GIビル(退役軍人手当て)で大学に戻った堀川さんはワシントン州立大(プルマン市)、バーンリー・アート・スクール(シアトル市キャピタルヒル)、ワシントン大学と続け、61年にワシントン大学から芸術修士号を受ける。ボーイング社でグラフィック関係の仕事をしていたが、59年に結婚した妻、徳禧久さんと共に翻訳関係の学校で教えるため、69年から10年間日本に移住した。翻訳の傍ら浄土宗に興味を持ち、また池の坊家元の妻の影響もあり、活け花に没頭する。「活け花はもともと仏様に供えるお花として活けたかった」とは堀川さんの言葉。72年には池の坊雄生流北米支部長となる。同時に浄土宗の住職の位も受けたがアメリカに帰ることになった。

79年にボーイング社に戻り、87年に引退してからは活け花に情熱を注ぐ。活け花は集中力、規則正しさを養うと共に自己の内側の静けさを呼ぶところを好むと言う。「昔、戦国時代の日本の武士は戦場に向かう前に花を活けたと言います」と語る堀川さん。だが、ヨーロッパの戦場には子供たちもいた。敵と戦っている子供たち。飢えと戦っているフランスの子供たち。そして故郷のアメリカでは収容所で差別と戦っている日系の子供たち。10代で両親を亡くした堀川さんには、子供たちに対する慈愛の気持ちが人一倍強いのかもしれない。堀川さんの、心を振るわせるほどの美しいものを求める姿勢は、この戦争を通して強まった。美とはアートの世界だけに留まらない。

シリーズについて
同シリーズは、2003年に本紙で発行された記事を転載したものです。当時は二世退役軍人の方々の多くがご健在で、本紙編集長を務めていた筆者が、その声を残すためにインタビューしました。当時の生の声を伝えるために、過去の記事に編集を入れずに転載しています。

東京都出身。2000年から2004年までジェネラルマネージャー兼編集長。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。