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ミン(ミノル)・ツボタさん〜静かな戦士たち 10

Min (Minoru) Tsubota, 2004

筆者:天海幹子

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、シアトル市近辺の11万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「NO-NO BOYS」と、志願兵「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を毎月シリーズでお届けする。

「虎年の人は一針以上縫ってもいいんですよ。虎は強いから、縁起がいいでしょう」。そう言って「千人針」を見せながらミン・ツボタさんは説明する。「女の人しかできないんですよ。ツーリ・レイクのキャンプでお母さんがね、作って渡してくれたから、僕は(戦争で)助かったと思う」。心持ち潤んだ、遠くを見る眼がやさしい。収容所で女性に会うたびに一針づつ頼んで回ったという、赤い玉縫いが千個も几帳面に並んだ生成り(きなり)の帯は、ところどころに小さな染みが付いているものの、まだほとんど新しい米袋で作られているように見える。「ほんとに嬉しくてね、畳んで袋に入れていつも持ち歩いていました」

ミンさんは1918年、ケント市で10人兄弟の末っ子として生まれた。両親は第1次大戦後に広島から移民。父は鉄道の枕木を作る製材所を経営し、日本にも輸出していた。

ミンさんはアメリカ兵として徴兵が始まる前の41年3月に志願した。カリフォルニア州、キャンプ、ロバーツで基礎訓練を受け、キャンプ、サン・ルイ・オビスボに配属された。ここでミンさんは高校時代から練習していたサクソフォンの腕が認められて160部隊の音楽隊にはいる。「僕はラッキーでしたね。そのころハリウッドから一流のプロのミュージシャンが州兵軍に志願してきたんですよ。徴兵されたくないからその前にって。僕はプロのミュージシャンと会えただけでも光栄でした」。ところが数カ月後日本軍の真珠湾攻撃が起こり、彼らは160歩兵隊として徴兵されてしまう。

ミンさんの家族はカリフォルニア州、ツーリ・レークに収容されるが、ミンさんも在留敵国人としての冷遇される。42年1月、配属の一団が南太平洋に送られることになり、軍は在留敵国人をイタリア人の戦争捕虜たちと一緒に倉庫警備に回した。キャンプ、サン・ルイ・オビスボにはカリフォルニア州の白人政治家の子息が集まっていたため、彼らの圧力で日系人は倉庫警備に回されたのだという。「日本との戦争が始まって、急に『在留敵国人』という、今までと全然違った待遇になってしまった」と失望を表す。

その後軍隊は「在留敵国人」を集め185人の二世兵士はロサンジェルスから窓を覆われた汽車に乗せられ、テキサス州フォート・ブリス(エル・パソ市付近)に送られる。小さい時から飛行機が大好きだったミンさんは、戦争が始まってしまうと昇進が凍結してしまうので42年4月、空軍将校になるための学校3校に申請書を提出するが、全て断られる。「手紙が3通返ってきました。日本人の血が入っているから任務には不適当って」

同駐屯地本部に配属になったミンさんは、日本人の血、日本語能力を買われて、同年9月に軍警察官に殺された2人の一世の裁判で通訳を任せられる。日米戦争が始まり、FBIは日本語の先生や県人会会長など重要な役割を担うリーダー的存在のリストを作成し、突入と共に捕虜とした。そうした中で無線機が備え付けられていた漁船に乗っていた2人の一世漁師がスパイ容疑で囚われ、「2人が逃亡しようとした」という理由で銃殺された事件が起きた。軍警察官が日本の民間人を殺したということで重大事となったため、ワシントンDCからスイスの赤十字を通し日本に伝え、この事実の確認と解明を約束して裁判となったわけだ。公判に出席した23人の日本人は、殺された2人は肺結核と2艘のボートに挟まれ負傷し歩けないほど弱っていたことを証言したが、現場に目撃者がいなかったため容疑者は無罪放免となった。「かわいそうだったけれど、アメリカの法律で立証できないものは無罪なんですよ」。通訳したミンさんはアメリカ人だが、被害者たちが敵国人であろうが関係なかった。

そのころツーリ・レークにいる母から手紙が届き、ユタ州にいる従兄弟を訪ねる様に言われ、そこで後の妻になる従兄弟の妻の妹、チェリーさんに出会う。軍はいよいよ二世兵士の442部隊を編成し、ミンさんもミシシッピー州のキャンプ・シェルビーへ移動する。「この時にチェリーに『結婚してくれないか』っていったら、『はい』って」。2人は43年3月に結婚した。「チェリーはね、直ぐ後を追って来てくれたんですよ」

一方、ツーリ・レークの母は息子の無事を願い、収容所で見かける女性、ひとりひとりに頼み「千人針」をこしらえ、ヨーロッパに遠征する前に届けた。新しい米袋を利用した千人針の帯は60年後の今もしっかりと形を留めている。

翌年の44年5月、最愛の妻チェリーさんと生後3日目の娘シャリーンを残し、ミンさんはバージニア州ハンプトン・ロードをヨーロッパに向けて出航する。101艘搭載の最大級の護衛艦はドイツ軍の戦艦を避けながらジグザグに大西洋を進み、31日かかりイタリア、ブリンデッシに到着する。8月にミンさんはフローレンスの南で負傷してしまう。「一生で1番恐ろしかった時」と表現する戦線は442部隊の砲兵隊、522部隊として北上しドイツ軍の攻撃を受けた時のことだ。向こうの責めてくる手順が分かり、『1発目、2発目、次か?』と思うときの恐怖は「身体全体が、押さえている鉄兜の中に入りこんでしまうかと思われるほど」だったと言う。

「死ぬかと思ったら、ムービーの様に小さいときのこと、お父さんのこと、お母さんのことを思い出したんですね。僕は母の千人針とチェリーの手紙が救ってくれたと思っています」。3発目の破裂弾の榴散弾片が後からささったが、後のポケットに常時携帯していた妻からのラブレターの厚さに守られ命は助かった。「チェリーが毎日手紙を書いてくれて、僕は後のポケットにいつも入れていたんですよ。12通くらいで電話帳の様に厚ぼったくてね。弾が通りぬけても、(この手紙が)なかったら内臓がやられていたかもしれない」。2人の女性の愛に支えられたミンさんからは感謝の笑顔がこぼれる。

45年8月、552部隊はドイツのダカオに入る。ちょうどドイツ軍が撤退した後のユダヤ人の収容所だ。「初めはホロコーストの収容所だと分からずに入りました。死体が貨車に何体も重なって積み上げられていた。アメリカには『ホロコーストなんてなかった』と言う人がいますが、僕らはそこにいたんですよ。この目で見ました」。食料をあげないようにと言われていたが、「弱った人たちが食料を漁りに来て消化できずに逆に死んでしまう人もいました」と悲惨な状態を目撃し「自分たちは今、ドイツの収容所でユダヤ人を助けていて、故郷のアメリカでは母たち、日本人が収容所に入れられているということに皮肉を感じました」。ミンさんは45年12月24日帰還し、翌年3月除隊した。

「『戦争から帰って来た時、お母さんとどういう風に対面しましたか?』と聞かれたことがあるけれど、一世は親子でも抱き合って喜ばないんですよ。母はただ手を握って僕の帰郷を喜んでくれました」。その母は1977年に他界した。「今から考えれば、抱きしめてあげればよかった」と、述懐するミンさんの母に対する愛は不変だ。MIS(軍諜報部)として日本に行くことを薦められたが、家族と一緒にいることを選んだミンさん。何年か前、孫カレンが小学校のプロジェクトで「私のおじいちゃんと442部隊」という発表をした。

「僕はちっとも知らなかったんだけれど、孫は大威張りでね」と、大威張りで語るミンさんは孫の気持ちが嬉しい。そんな孫も、ミンさんの他人を思う人柄も、千人針を作って送り出した母、フサノさんから受け継がれているのだろう。「母の千人針」の持つ力は海のように深く、底知れない。


シリーズについて

本記事は、2004年に掲載された記事を転載したものです。当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として、当時の記事に編集を入れずにそのまま転載しています。

東京都出身。2000年から2004年までジェネラルマネージャー兼編集長。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。