Home 日系移民の歴史 「ノーノー・ボーイ」の世界を探る 第5回 新版がアメリカで一...

第5回 新版がアメリカで一昨年出版

太平洋戦争を挟みアメリカで生きた日系アメリカ人二世、ジョン・オカダ(John Okada)が残した小説「ノーノー・ボーイ(No-No Boy)」。1971年に47 歳で亡くなった彼の唯一の作品は、戦争を経験した日系アメリカ人ならではの視点でアイデンティティをはじめ家族や国家・民族 と個人の在り方などさまざまなテーマを問う。いまも読み継がれるこの小説の世界を探りながらその魅力と意義を探っていく。

本では毎月100冊以上の新書が出版されている。「教養」から「時事」、「実用」まで多種多彩な新書群を概観することは、日本の最新事情を知ることでもある。日本で唯一の新書のデータベース「新書マップ」と連携したウェブマガジン「風」に連載の新刊新書レビューを毎月本紙で紹介する。

表紙に描かれた主人公の苦悩

初版はまったく注目されなかった「No-No Boy」は、1976年に復刊された。以来読み継がれ、版元のワシントン大学出版では13 回版を重ねて累計で10 万部以上を出版している。この間、ずっと同じ表紙で同じ内容だったが、一昨年新たな序文を加え表紙も一新した新版が出た。

ボブ・オノデラの手によるこれまでの表紙のイラストは、一見何をあらわしているのかわからないが、よく見ると人間の顔のようで片方の目は星条旗が、そしてもう片方には旭日旗が小さく描かれている。小説の主人公イチローの目だと類推できる。

赤色の「NO-NO BOY」という字体は、アメリカ軍の戦車などに使用されるアーミー・ステンシル・フォントで、これも内容を暗示している。

新版の表紙は、イラストレーターであり風刺漫画を描くトロントのジュリアン・タマキが手がけた。薄いブルーをバックに主人公イチローと思われる若い男の横顔が、ややラフに力強い筆致で描かれている。1957年の初版の表紙で、M・クワタが描いた両握り拳で顔を覆った頭だけの主人公の姿を思い出す。

新版ではまっすぐな黒い髪が額の横にかかり、苦悩や戸惑いを表わすように目は見開かれれている。が、どこを見つめているのかわからない。目つきや髪型は、日本人の目から見ると日本人というより中国人や朝鮮半島の男性に見える。しかしもちろんイチローであり、表情には彼の内面が表れている。

タイトルの「NO-NO BOY」という文字は、この横顔にかぶさるように中央に配置されているが、これはThomas Eykemans というデザイナーによるものだ。色が赤という点は、日の丸日本を象徴しているようだ。

新版では、これまでどおりローソン・イナダによる序文とフランク・チンによるあとがきが小説の前後に置かれているが、これに加えて新たに日系人の女性作家、ルース・オゼキによる序文が冒頭に添えられた。彼女は「ノーノー・ボーイ」を復刊させた当時のイナダらアジア系アメリカ人より一世代下に属する。

突然、ジョン・オカダの署名が出現

新版はオゼキの序文が加わった以外はまったくこれまでと同じ、と一見思われるのだが、実は一点、わずかながら異なるところがある。そしてこれがまたある意味で非常に重要な意味を持ち、批判の対象にもなっている。

小説「ノーノー・ボーイ」は、イチローを主人公として、戦後の主にシアトルを舞台にした物語で、11 章から成り立っている。しかしこれとは別に「Preface」がついている。「序文」あるいは「話の前置き」といった、物語とは直接つながりのない部分が5ページ(復刻版の場合)ついている。日本語版では「ことのはじまり」といった訳がつけられている。

書き出しを訳せば、「日本の爆弾がパールハーバーに落ちたのは、一九四一年一二月七日だった」となる。このあと、日米開戦後に西海岸の日本人、日系人やその周辺にどんなことが起ったか、あるいは起こりえただろうかをいくつもの短いエピソードにしてつなげている。

そして、最後に大戦中に日本本土への偵察飛行からグァム島へ帰る飛行機の中での、白人中尉と、家族が収容所に入れられている日系人兵士との会話で締めくくっている。家族が収容所に入れられても、自分には軍隊に入り戦わなければならなかった理由があったとその兵士は言う。このあと、ページを変えて第一 章に入っていくのが初版であり復刻版でも同じだった。

作品の芸術性を壊すものと批判

ところが、新版では「序文」の最後に、「John Okada( ジョン・オカダ)」と、書名が入っている。これは編集者が新たに書き加えたものと考えざるを得ない。序文に登場する日系人兵士が、オカダ自身をモデルにしていて、兵士をしてオカダが語っていることになっている、ということを読者に与えようとしているともとれる。

確かに、実際のオカダは日系アメリカ人二世であり、軍に志願して入り、戦時中はMIS(Military Intelligence Service= アメリカ陸軍情報部) に所属して、太平洋戦線に赴いた。この点から、兵士をオカダの分身であるかのようにとらえて、あえて署名を加えたのかもしれない。

オカダの経歴はいずれ改めてご紹介するが、序文のなかの兵士は、家族はワイオミングの収容所に入れられていると言っているのに対して、実際のオカダの家族は戦時中アイダホのミニドカ収容所にいた。

著者本人が書いていないのにもかかわらずこのように「John Okada」と署名を加え、序文がオカダ本人による語りであるかのごとく本書を構成したことに、ジョン・オカダと「ノーノ・ボーイ」について長年研究しているシアトル在住のフランク・アベは、これまでにも多くの学者が序文について、そのなかにオカダ自身が投影されているように読み違えて来たことを揚げて、次のように批判している。

「署名は、オカダのフィクションによって組み立てられた夢の世界を中断し、彼の芸術家としての意図を破壊するものだ。…… 序文はフィクションの一部であって、自伝ではない。オカダの署名は、目障りで誤った解釈をもたらす余計なものであり、物語を阻害するものである。今後増刷の場合は削除されるべきだ」

また、署名を加えたことは、オカダ家は認めていないという。

なぜこのようなことになったのかは不明だが、新たな読者は気づかないだろうだけに、訂正が望まれるところだ。作者の意図とは違ったことになるのは、大きな問題だろう。

(敬称略)

(川井 龍介)

筆者プロフィール: ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。「大和コロニー『フロリダに日本を残した男たち』」(旬 報社)、「『十九の春』を探して」、「122 対0の青春」(共に講談社)などど著書多数。「No-No Boy」の新たな翻訳を手掛ける。この夏、『ノーノー・ボーイ』の新訳を旬報社から出版予定。