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アメリカン・ドリームを追いかけた日本人

寄稿 = 高橋 進

木家下真治(こかげ・しんじ)さんはミストラルのように去っていった。それは「見事な」という意味にもなるフランス語だ。最後の挨拶もできなかった。思い返せは40年の付き合いであった。私の半生よりも長い期間だ。いつも夢を追いかけていた。「引退したら一緒に会社をつくって、儲かったら京都の丹後に松茸狩りに行こう」と二人で相談していた。「松茸山のある民宿に泊まって、採った松茸ですき焼きを囲もう」「その時は宇和島屋の富雄さんも誘っていこう」と一緒に話を温めていた。が、彼の引退はそのまま持ち越された。

4年ぐらい前の夏の終わりであった。JCCCW(日本文化会館)にシアトルの県人会が集合し、県人会大会をやることになった。私の京都クラブは千葉県人会と同じ部屋であった。ポスターを壁に貼って千葉出身の木家下さんを待った。ついに来なかった。ハウスボーイをやっていた学生さんが出てきて、今日はしんどくて来れないという伝言を伝えに来た。二日酔いかなと思った。それが入院することになるきっかけになった。

わずかの可能性を信じ、点滴をしながら病院の廊下を歩く毎日、ホスピス・ケアを拒否し、消えかけたキャンドルのさらなる生に命をかけた。そして、数か月後のベルビュー・カレッジでの最後の秋祭りに突如現れて私を驚かせた。

いつも一緒に菊寿司でランチを食べ、仕事のこと、将来の夢を語り合った。メニューはいつも決まっていた。長崎ちゃんぽんと寿司ランチを二人でシェアした。ワシントン大学の病院から退院した年末、メッセージが届いた。パイクプレイス・マーケットの寿司かしばで私は働いていたが、司郎さんのスメルトの南蛮漬けがどうしても食べたいという。季節はずれのメニューではあったが、司郎さんが快く特別につくってくれた。木家下さんは自分で車を運転して取りにきた。野球帽を後ろ向きにかぶり、元気な青年に戻っていた。親指を立ててガッツポーズをした。私はスマートフォーンで写真を撮った。

病気になる前、木家下さんと私はグルメポップコーンを日本に輸出しようとした。ポップコーンをフランのチョコレートのように色々な味のチョコレート仕立てにし、立派なショーケースに入れて宝石みたいに売るやり方だ。福島からクライエントも来て、東京お台場のギフトショーにも出展してもらった。これで僕ら二人の未来はバラ色だと思っていたら、ベンチャーキャピタルの会社にアイディアを横どりされてしまった。トンビに油揚げであった。でも、彼はへこたれなかった。将来に夢を託した。どんな苦境に立っても木家下さんは快活、前向きで、にこにこし、やる気にさせてくれた。最後に会ったのは5月21日ジャパンフェアの委員会で私の対面に座っていた時だ。いつも突然現れて私を喜ばせてくれた。次に会えるのはいつのことやら。きっと、夢の中。ご冥福をお祈りします。

(高橋進)

北米報知は、ワシントン州シアトルで英語及び日本語で地元シアトルの時事ニュースや日系コミュニティーの話題を発信する新聞。1902年に創刊した「北米時事 (North American Times)」を前身とし、第二次世界大戦後に強制収容から引き上げた日系アメリカ人によって「北米報知(North American Post)」として再刊された。現存する邦字新聞として北米最古の歴史を誇る。1950年以前の記事は、ワシントン大学と北米報知財団との共同プロジェクトからデジタル化され、デジタル・アーカイブとして閲覧が可能(https://content.lib.washington.edu/nikkeiweb/index.html)。