新舛與右衛門(しんます よえもん)ー 祖父が生きたシアトル
筆者:新舛育雄
山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。
第5回 絶頂期の理髪業
前回は、シアトルで生まれた子供達が蒲井の與右衛門の両親の元へ預けられ、與だけ両親が働くシアトルへ呼び戻されたところまでを書いた。今回では、その後の與右衛門の理髪業の絶頂期について伝えたい。
シアトルからワラワラへ
1924年5月に長男の與を故郷から呼び戻した與右衛門は、しばらくシアトルにいた後、同年夏頃に郊外のワラワラ市に転居した。
シアトルでは狭いホテル暮らしであった。転居を決断したのは、家族でゆったり住めるマイホームを持ちたいと思ったからだった。ワシントン州東部のワラワラなら、シアトルから少し離れるが、マイホームを持つことができたようだ。
この当時のワラワラ市は、人口約1万5000人程度の小さな町だった。『北米年鑑』1928年版によると、ワラワラ市には與右衛門を含め13人の日本人が居住していた。居住者の名前と住所が記載されており、與右衛門の住所も「9 South. 4th St. Walawala, WASH」との記述が残っている。
ワラワラからシアトルまではかなりの時間を要したが、道路が整備されはじめた頃で、與右衛門は車で頻繁に行き来した。当時、與右衛門が乗っていた車の写真も残されていた。4、5人がゆったり乗れる大きな車だった。與右衛門は、ワラワラヘ移った後もシアトルへ通い、伊東忠三郎などシアトル在住の要人や親戚、友人らとの交流を欠かさなかった。
與右衛門一家にとって、空気のいいワラワラでの生活は快適であった。家の周りには広い土地もあったので、花畑にした。どこか蒲井のような田舎の雰囲気があり、與右衛門は心の安らぎを感じていた。與右衛門は近所の日本人家族と親しくなり、家族ぐるみの付き合いをした。この時期、家の前で與右衛門が庭に座り込んで撮影した写真が残されている。この写真には「楽しい我が家を背景に」と書かれていた。
親しくなった家族の奥さんは妻のアキとほぼ同年齢で、アキとよく気があった。この家には六歳の男の子一人と、八歳と五歳の女の子二人がいた。男の子は與の友達になり、一緒に遊んだ。女の子二人はよく與右衛門の家に遊びにきた。奥さん、子供達一人一人に、撮影月日、9月25日と書かれた写真が数枚残されている。與右衛門一家がワラワラにきた初年の1924年だと推測される。この家族とは、それほど親しくつきあっていたようだ。
與右衛門は、その女の子二人を、車に乗せてやったりしてかわいがった。與右衛門は、蒲井においてきた、ほぼ同じ年齢の娘二人のことを思い出し、少し後ろめたい気がした。與右衛門は自分の娘二人を蒲井に置き去りにした。そのことを少し後悔もしたが、今さらそれを悔いても仕方がなかった。
豪華絢爛理髪店の開業
與右衛門は、シアトルで理髪店を始めたころに、ある人に連れられて白人経営の理髪店を見に行ったことがあった。その時、與右衛門は入る店を間違えたかと思った。広い宮殿のような店内には、豪華な椅子がおかれ、理髪用の椅子は王様が座る椅子のようにきらびやかであった。その光景は與右衛門の頭にこびりつき、いつか與右衛門自身も白人経営のような豪華な理髪店を持ちたいと夢みるようになった。
シアトルの繁華街では家賃も高く、とてもこの夢は果たせそうになかったが、ワラワラへ移った與右衛門は、夢の実現を考えた。シアトルは人口が多いが、日本人経営の理髪店も多い。それに対し、ワラワラは全体の人口こそ少ないが、日本人経営の理髪店はまだ1軒もなかった。與右衛門は、ワラワラにいる白人全体を受け入れられるような理髪店を作りたいと考えた。そしてそのためには、すべての白人に好まれるような、大きくて立派な理髪店にすることが必要不可欠だと考えた。與右衛門はワラワラで理髪店ができそうな所を探し、ここならいけるというところを見極め、夢に描いてきた理髪店の建設にとりかかった。
1916年の『大北日報』によると、理髪店を開業するための資金はシアトル日本人理髪店の平均で590ドル。こうした理髪店のほとんどは夫婦で営む簡素な店舗で、理髪椅子二つが主な構成であった。最大規模の理髪店になると1200ドルから1300ドル要したと記述されている。
與右衛門は、これらを上回る資金をかけて、白人理髪店をも超えるような豪華な店舗を造り上げた。シアトル日本町の暗い地下にあった簡素な理髪店とは全く規模が違う。きらびやかな内装が施され、壁には有名芸能人らしき写真も貼られ、光沢のある立派な椅子がいくつも置かれた、広く豪華な理髪店が完成した。新たな雇人も抱えた。
結果、この理髪店は大繁盛した。日本人はもちろん、ワラワラに住む多くの白人客が集まるようになった。ワラワラにはまだ理髪店が少なかったこともあり、シアトルで経営していた店以上に栄えた。白人客も、立派な椅子や内装、アキの器用な手さばきに大満足し、ワラワラではちょっとした有名店になった。
この豪華な理髪店での、アキと與と写る家族写真が残されている。写真の與右衛門は笑顔ではつらつとし、アキと與もとてもうれしそうな表情をしている。大きな目標を達成した満足感が伝わってくる。
筆者は、與右衛門がこのように大成功を収めた理髪業が、どのくらい儲かるビジネスだったのかを調べてみたいと思った。『米国西北部日本移民史』の中に、1919年6月末における、シアトルで日本人が経営する21業種、674軒の職業の総収入と利益を克明に記した「シアトル市営業状態調査表」が掲載されていた。
理髪業は54軒で総収入が22万7150ドル、利益が12万9750ドルと記載されている。この数字から、理髪業の利益率はおよそ57%だとわかった。他の業種の利益率も同様に計算してみると、医院50%、魚商50%、ダイウオーク業(クリーニング業のこと)44%、ホテル業40%、靴修繕商37%という順で、21業種の平均利益率は20%であった。理髪業の利益率57%は、日本人が経営する全業種の中で最も高い利益率だ。
理髪業の利益率が非常に高い理由は、あまり大きな資金がなくても開業できたこと、朝早くから夜遅くまで働き、多くの白人来客により多くの収入を得ることができたこと、そして夫婦共稼ぎにより安価な人件費で済んだことなどが挙げられる。與右衛門の理髪業の成功は、一日中立ちっぱなしの仕事に堪えられる田舎育ちの辛抱強さと、アキの内助の功に支えられた二人三脚での理髪店の経営によるものと思われる。
與右衛門の人物紹介の掲載
與右衛門がワラワラで新しい理髪店を経営していた絶頂期のころの様子が、1929年7月に大北日報社から1200ページに及ぶ日本移民史として発行された『米国西北部日本移民史』の中の「米国西北部在留邦人名鑑」に掲載されている。
「氏は1903年渡米し、1909年シアトル市に於て理髪業を経営したが、1922年帰朝して同年再渡米し、後ワラワラ市に転じ理髪店を購入し、現在迄熱心に営業して居る。夫人アキとの間に一男二女を儲け家庭は円満である。」
蒲井の田舎から裸一貫でシアトルに渡った與右衛門にとって、当時を代表する移民史への掲載は大変栄誉なことだった。
しかし、この本が出版されたことは、與右衛門は知りえなかった。
與右衛門は、理髪業の頂点を極めるまで進み、大きな目標の一つを達成することができた。そして、與右衛門はもう一つの大切な課題について思考をめぐらせていた。日本から呼び戻した與の教育についてだった。
参考文献:『北米年鑑』北米時事社1928年、『大北日報』1916年4月1~5日「沙都(シアトル)同胞職業調らべ」、竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社1929年。