マイク・ロウリー元ワ州知事が1日に死去した。78歳だった。地元政治関係者や関連団体が弔文を発表、地元メディアを中心に記事が発信されている。
州知事は1992年に当選し1期を務めた。だが日系社会にとっては、その前にあたる連邦議員時代こそ、深い関わりのある大人物だった。1988年可決の市民の自由法(リドレス法)の中心的人物の1人となり可決に尽力した。
1978年の初当選後、連邦議会で初めて日系人収容所の戦後補償と政府謝罪を求める法案を提出した。ロウリー氏が進めた原案は可決を見なかったが、関連審議委員会の発足につながり、その後の市民の自由法として形となった。
リドレス(戦後補償)法案のロビー活動で、日系関係者が若干40才ほどだった若手政治家のロウリー氏を訪れ支援を依頼したところ、同氏は2つ返事で「イエス」と答えたという。長い説明が必要と考え準備してきた日系関係者を大いに驚かせたという。日系関連イベントの会合で当時を振り返るたび、「これまで数々あった法案で一番決断が簡単だった。サポートをしない理由はなかった」と話す姿が印象に残る。
ワ州の連邦第7区から選出され、日系リードレス活動のピークにあたる78年から88年まで連邦下院議員を務めた。ハワイ、カリフォルニアから日系政治家を輩出するなど、躍進を見せる日系社会だが、マイノリティーの立場は現在とは比較にならず、ロウリー氏の理解と支援は多くの関係者を勇気づけたに違いない。
任期中は上院選に2度出馬したが当選はならなかった。一方でロウリー氏のあとには、ジム・マクダーモット氏が前期まで後を継ぐなど、親日系ともいえる選挙区が作られてきた。
筆者が話す機会を持ったのは、5年ほど前だろうか、オリンピア州議会で行われたデイ・オブ・リメンブランス会議のときだった。州議会傍聴席に日系関係者が集まり、特別議案の可決を見守るなかでロウリー氏も列席していた。すでに公人ではなかったが、気軽に質問に答えてもらい、親しみがあり尊敬できる人物だった。
(佐々木 志峰)