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明治維新150周年、米国移民150周年

ハワイ・スプレッケルズビルのバナナ農園で働く日本人労働者たちを描いた油絵(ジョゼフ・ドワイト・ストロング作、1885年)

アメリカ移民の歴史をだどることは、近世以降の世界史を紐解くようだ。執筆や編集業務のために移民史を調べるたびにそう思う。当地、インターナショナル・ディストリクトの歴史を切り取ってみても、そこへ流れついた移民の波は、中国とイギリスのアヘン戦争、日本の明治維新、フィリピンにおける米西戦争、そしてベトナム戦争と、アジア地域の歴史の波と大きく関係している。

1868年の明治維新。この近代化革命から150年に当たる今年は、日本人の北米移民150周年でもある。明治史と日系移民の歴史もまた、照らし合わせていくと興味深い。

ハワイで「元年者」と呼ばれる初の日本人労働者約150名が明治元年にホノルルに上陸している。サトウキビのプランテーション栽培で労働力を求めていたハワイ王国が、徳川幕府にとりつけて実現した渡航であった。維新後に明治政府からの抗議で半数ほどが日本へ戻ることになったが、ハワイ、そしてアメリカ大陸への移民流入の幕開けになった。

北米大陸への日系移民第一号は、1877年にカナダへ渡った永野万蔵(ながの まんぞう)とされる。1877年は明治10年。日本社会が江戸から明治へ移り変わり、最後の士族反乱であった西南戦争が起こった年だ。6年後の1883年にはシアトル移民第1号とされる西井久八(にしい きゅうはち)がポートランドからシアトルへ移り、1887年にパイオニア・スクエアに初の日本人経営洋食レストランを開店した。西井はその後、ホテルや農園経営でも成功を収め、出身地である愛媛からは、彼に触発された多くの青年がシアトルへ押し寄せた。大日本帝国憲法が発布された1889年、シアトルで大火災が起こり、それを機に日本人街が現在のインターナショナル・ディストリクト周辺に形成され始めた。

移民の多くは、明治維新後の近代化に伴って余剰労働力が生まれた貧しい漁農村の出身。また1905年に日露戦争が終わると、戦後恐慌で職にあぶれた帰還兵の多くが生活の糧を求めて渡米した。一人ひとりに海を渡った事情がある。伊藤一男著『北米百年桜』には彼らの当時の状況が詳しく記述されているので、一部を抜粋して紹介したい。

「1884年(明治17年)6月28日、山口県の農家に生まれた私には、4人の姉と2人の兄と弟1人がいた。弟が血を吐いて入院した。父は『東京で1番いい医者にみせたら』といっていたが、やはり費用の点で思うにまかせなかった。私は、アメリカに出稼ぎにいって家へ送金しようと思い立ち、父と兄の反対を押し切って、小学校の校長であった伊藤忠三郎氏をたよって、1899年10月4日、神戸出帆の『旅順丸』で渡米した」。(シアトル・為左宇八)

西井のような成功者もいた一方で、炭鉱や鉄道工事など過酷な肉体労働に低賃金で従事し続けた者も少なくなかった。多くの移民は「出稼ぎ」が目的で、金を貯めたら故郷へ戻るつもりであった。しかし、低賃金のうえ生活費も高く、日本へ帰れぬままだったようだ。

アメリカで生活する日本人として、日系1世の軌跡には励まされる思いがする。言葉や文化の壁にぶつかりながらの試行錯誤、日本に残してきた両親への心配、またはアメリカ人として育っていく子どもたちへの複雑な思い。異国生活ゆえの辛さに不平をこぼしたくなるが、1世の苦労の上に成り立つ恵まれた現在の環境を思えば、むしろ感謝しなくてはならない。

150周年の今年、『北米報知』でも日系移民1世の軌跡をたどる特別企画を予定している。前述の『北米百年桜』など素晴らしい文献も多いが、1世の方々の生きざまを知る生の声も集めたい。どのようなことでも、情報をお持ちの方は北米報知編集部まで一報をいただきたい。

(室橋美佐)

北米報知社ゼネラル・マネジャー兼北米報知編集長。上智大学経済学部卒業後、ハイテク関連企業の国際マーケティング職を経て2005年からシアトル在住。2016年にワシントン大学都市計画修士を取得し、2017年から現職。シアトルの都市問題や日系・アジア系アメリカ人コミュニティーの話題を中心に執筆。