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特集 パイクプレイス・マーケット 歴史と今

シアトル観光の目玉とも言えるパイクプレース・マーケットは今年で創設110周年。「パブリック・マーケット」としてコミュニティーに支えられながら歩んできた歴史と今をレポートします。

(取材・文:島涼介、岡田みなみ  企画・編集:室橋美佐 )

シアトルが生んだ奇跡のマーケット

シアトル観光の目玉として世界中から観光客を呼び込むパイクプレース・マーケット。今年で創設110周年を迎えるパブリック・マーケットの歴史と現在の社会貢献について、パイクプレース・マーケット財団のエグゼクティブ・ディレクターを務めるリリアン・シャーマンさんに話を聞いた。

リリアン・シャーマン(Lillian Sherman)さん
パイクプレース・マーケット財団エグゼクティブ・ディレクター。幼少時代をオレゴン州マクミンビルで過ごし、シアトル・パシフィック大学で政治学と社会学を専攻。90年代にパイクプレース・マーケット財団で働いた後、シアトル大学で公共政策修士を取得し、シアトル市内の他の非営利団体でコミュニケーション・マネジャーとして13年間勤務。2012年から現職。

始まりはタマネギ価格の高騰

パイクプレース・マーケット開設は1907年。アラスカ・ゴールドラッシュでシアトルが急成長した時期だ。一獲千金を狙う採掘者や取引業者で賑わい、あわせて造船業や鉄道業が栄えると、1900年に人口約8万人の港町だったシアトルは1910年には人口約24万人の都市に急成長した。人口が増えれば必然的に「食」の需要が増える。そこで誕生したのが農産物の直販所のパブリック・マーケットだった。

「マーケットが誕生する以前の農産物市場は、卸売り業者が支配していました」と、リリアン・シャーマンさん。農家は低価格で農産物を買い取られ、消費者は高価格で買わざるを得ない状況だったという。「しかし、タマネギの価格が高騰したのをきっかけに農家と消費者の不満が爆発したんです」。農家と消費者が農産物直販所の設置を市に訴えて運動を起こし、シアトル市議員だったトーマス・レヴェル氏が賛同して市議会に働きかける形で、1907年8月に直販所(マーケット)が設置された。

当初は数件の農家が野菜を小さなワゴンに乗せて売るという小規模なものだったが、初日からマーケットは大盛況。「当時、ダウンタウンの中心地はパイオニア・スクエアでした。そこからクイーンアンなど住宅地区への帰路にあるマーケットは、立地的にも最高だったのだと思います」。1907年11月には、ゴールド・ラッシュで財を成したフランク・グッドウィン氏がマーケットの拡張に投資をする。雨の日でも販売できるように現存するアーケード施設を建設し、「パイクプレース・マーケット」の名称をつけた。リリアンさんによれば「1920年代がマーケットのヘイ・デイ(最盛期)」。シアトルの活況とともにマーケットも成長し続け、1930年には500件を超える農家がマーケットで農産物を直販するようになった。

戦後の衰退と大型再開発への抵抗

「マーケット・フロント」には、新しいシニアウジングも併設されている。

第二次世界大戦の頃から状況は一変する。1941年になると、当時マーケットで3分の2を占めていた日系農家が姿を消す。大統領令で強制収容所へ連行されたからだ。「急速にマーケットが衰退した理由は他にもあります」とリリアンさん。まずは冷蔵庫の普及。スーパーマーケットで買いだめて冷蔵庫で保管することができるようになったため、マーケットで毎日買い物をする必要がなくなった。食生活も変わり、缶詰やインスタント食品などが一般化して新鮮な野菜を求める消費者が少なくなった。さらには自動車の普及で郊外化が進みダウンタウンから住民がいなくなると、マーケットへの来客も激減した。ダウンタウン全体が衰退してマーケット周辺の治安も悪化した。

1960年代、マーケットは解体の危機にさらされた。廃退するダウンタウンを整備しようと、市が大型不動産開発を進め、マーケットにも再開発計画が提案された。計画は戦前からの建物を壊して高層ビルを建設し、高層ビル内の一画にマーケットを残すというものだった。マーケット解体に危機感を持ったワシントン大学教授で建築家のビクター・ステインブリューイック氏がマーケット保護を訴え、市民に支持を求めた。10年ほど続いた市民運動が実を結び、1971年にシアトル市はマーケット周辺の土地を買い取り歴史保護地区に指定。パイクプレース・マーケット財団とPDAも設立され、大型開発とは違う形でマーケットの復興が進められることになった。

コミュニティーとの深いつながり

6月29日にオープンした「マーケット・フロント」。エリオット湾を眺めるオープンスペースや47件の屋内店舗スペースなどが拡張された。

「パイクプレース・マーケットはシアトルが生んだ奇跡です」とリリアンさんは熱く語る。今では毎年15憶人にのぼる人々が訪れる、シアトル屈指の人気観光スポットだ。「高層ビルが建っていたら、こうはなっていなかったでしょう。昔ながらの小さな店舗スペースが集まる、地域に密着したスタイルが、観光客にとっては新鮮で魅力的なのだろうと思います」。シアトル市民に愛されるパイクプレース・マーケットは、コミュニティーからの献金で成り立っている。市が土地を提供している以外は、政府からの補助金などは受けていない。

マーケット・フロント拡張工事にパイクプレース・マーケット財団は、これまでに約850万ドルの献金を集めた。写真は献金者の名前を彫ったチャーム。一口180ドルでこのチャームに名前を彫ることができる。工夫をこらした個人献金のほか、大口の企業献金も集める。

マーケット内の農産物直販スペースは、地域の小規模農家の経済的サポートとなっている。アーティストたちが低料金のテナント費でクラフトやアート作品を販売するスペースもある。「アーバンガーデン」と呼ばれるマーケット内にある菜園では、ボランティアが野菜や果物を栽培してフード・バンクで配ったり、シニア・センターへ寄付したりする。「小規模農家のサポート、新鮮な野菜を消費者へ届けること、地元の中小ビジネスを活性化すること、市内の低所得者向け住宅を確保すること。マーケットのミッションは設立当時から変わっていません」とリリアンさんは締めくくった。

パイクプレース・マーケット財団とは?
パイクプレース・マーケットの土地はシアトル市が所有しているが、管理運営は二つの非営利団体が担っている。そのうちの一つがパイクプレース・マーケット財団。マーケット運営に必要な資金を集める献金活動を行うほか、マーケット内にあるシニア・センターや幼稚園の運営などの社会奉仕活動も行う。パイクプレース・マーケット入口にある実物大の豚貯金箱「Rachel the Piggy Bank」に集まった献金は、パイクプレース・マーケット財団のスタッフによって毎日回収されている。もう一つの団体であるパイクプレース・マーケットPDA(Preservation and Development Authority)が、店舗テナント運営や建物の管理を行っている。

 

日系農家とパイクプレース・マーケット

パイクプレース・マーケットと日本人は深いつながりがある。1941年に日系移民が強制収容されるまで、マーケットで農作物を販売する農家の約3分の2が日系移民農家だった。曽祖父と祖父が1900年頃から現在のサウスセンターモール周辺で酪農を営み、1920年頃からはレントンの現ボーイング社工場敷地で野菜農業を営んでいたディー・ゴトウさんに、当時の日系移民農家の繁栄とパイクプレース・マーケットとの関わりを聞いた。

ディー・ゴトウ(Dee Goto)さん
オレゴン州東部で農業を営む日系家庭で生まれ育つ。シアトルで生まれ育った父親の勧めで1960年にワシントン大学の看護学校へ入学。1961年に、シアトル日本語学校のクラスメイトの兄であった夫のサムさんと結婚。二女に恵まれる。大学卒業後は看護婦として活躍。退職後は積極的にシアトル日系コミュニティーの歴史を伝える活動に携わる。2003年には。自身の先祖である柄巻家を中心に、広島県からシアトル地域への移民史を纏める本も出版。

パイクプレース・マーケット創設の時代は、多くの日本人がシアトル地域へ移住した時代でもあった。1896年に日本郵船が横浜とシアトル間の直航便を開始。その翌年に、ディーさんの曽祖父である柄巻実松さんはアメリカへ移住した。実松さんは当時47歳。広島に妻や子どもたちを残しての出稼ぎだったそう。「日系移民の多くは、まずは鉄道会社や缶詰工場で雇われ、資金がたまると日本町でホテルや店を経営したり、農業を始めたりしました」とディーさんは語る。人種差別で一般企業への就職は難しかったため、店舗経営や農業に成功への道を求めたという。

「多くの日系移民は農家出身で、農業学校などを卒業して高い農業技術を持っていました」とディーさん。日本人農家は野菜や果物の栽培のみならず、酪農業においても成功を収めていたという。文献によれば、1910年から1920年にシアトル地域で流通していた牛乳の約50%は日本人酪農家が生産したものだった。実松さんも酪農で成功すると、広島からディーさんの祖父を含めた息子たちを呼び寄せた。

パイクプレース・マーケットで野菜や果物を販売する日系移民農家の男性。1930年代に撮影。 © Densho, Bainbridge Island Japanese American Community, the Kitamoto Family Collection

日系移民が急速に農業で実績を上げると、白人系移民から圧力がかかり始める。北欧系酪農家団体からの働きかけで、1920年にスミス・ブラザースやカーネーションなど乳製品加工業者が日系移民からの仕入れを停止。「祖父兄弟はその頃には200頭の乳牛を飼育していましたが、市の役人が来て『これらの牛は病気に感染しているから』と言って全頭をトラックで連れて行ってしまいました」とディーさんは話す。もちろん病気というのは言いがかりだ。

酪農家として生活が困難になった柄巻一家は、レントンで野菜農家を始めた。1921年の排日土地法で日系移民の土地所有が禁止されていたため、借地での畑作りだった。生産した野菜はパイクプレース・マーケットで販売。農業と子育てで忙しい両親に代わって、まだ12歳だったディーさんの父親がトラックに野菜を積んでマーケットに売りに行っていたという。1926年には、イタリア人農家たちが日本人農家をマーケットから追放しようと請願書を市議会に提出したこともあった。しかし、グッドウィン氏の反対で日系移民農家による販売が続けられた。

農作業中の日系移民家族。撮影場所は、ユニバーシティー・ビレッジがある辺り。ここで収穫された作物はパイクプレース・マーケットで販売されていた。 © Densho, the Tanagi Family Collection

「私の先祖が成してきたことを考えると力がわきます」とディーさんは言う。「何があっても大丈夫。どんな状況にも柔軟に対応して再生すればいい」。シアトルで看護師として活躍したディーさんは、リタイアした後、夫のサムさんと一緒に柄巻家の歴史やシアトル日系移民の軌跡を伝える本を出版した。「確かに人種差別はありましたが、それを恨むつもりはありません。当時は競争の中で(白人移民も含めて)皆が生き残るために必死だったから」とディーさんはほほ笑みながら話してくれた。

取材したディー・ゴトウさんの夫、サム・ゴトウさんは姉妹紙北米報知にシアトル日系移民の歴史を伝えるコミックを連載。ソイソース今号に向けて、サムさんがパイクプレース・マーケットの歴史コミックを書いてくれた。©Sam Goto

参考文献:
・Goto, S., & Goto, D. (2003). Tsukamakis of Ontario: Hiroshima, Japan to Ontario, Oregon : stories of immigration to integration.
・アジア資料歴史センター

 


岡田みなみ
関西学院大学文学部史学科3年生。IBP留学プログラムに参加し、ベルビュー・カレッジで1年間を過ごした後、日本帰国前に北米報知社で2か月間のインターンを行う。

かつて多くの日系人がパイクプレース・マーケットで活躍し、マーケットの成功を助長していたことに驚きました。様々な差別や迫害を受けても、決して諦めず、どんな状況にも柔軟に対応したからこそ、今日まで続く成功ができたのではないかと考えます。私は大学で世界史を専攻していますが、日系アメリカ人の歴史を今まで学んだことがなかったので、今回の取材で視野を広げるきっかけになりました。

 

島涼介
早稲田大学商学部3年生。ハイライン・カレッジで1年間の留学中に北米報知社でインターンを行う。大学卒業後は海外展開する日本企業への就職を希望している。

パイクプレース・マーケットは歴史を通じて常にコミュニティーと共存してきました。地域の農家やアーティスト、規模を問わずに全ての地域の人々に機会を与え、チャンスを手にした人たちが生き生きと働く姿を、取材を通して肌で感じることができました。パイクプレース・マーケットがなぜ観光客を魅了するのか、いかにコミュニティーに愛されているかを知ることができました。

北米報知は、ワシントン州シアトルで英語及び日本語で地元シアトルの時事ニュースや日系コミュニティーの話題を発信する新聞。1902年に創刊した「北米時事 (North American Times)」を前身とし、第二次世界大戦後に強制収容から引き上げた日系アメリカ人によって「北米報知(North American Post)」として再刊された。現存する邦字新聞として北米最古の歴史を誇る。1950年以前の記事は、ワシントン大学と北米報知財団との共同プロジェクトからデジタル化され、デジタル・アーカイブとして閲覧が可能(https://content.lib.washington.edu/nikkeiweb/index.html)。