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フジマツ・コーポレーションCEO(宇和島屋元CEO、ソイソース・北米報知発行人) トミオ・モリグチ

新しいビルも増え、街の景色が変わりつつあるインターナショナル・ディストリクト。この地区に、小売店、ホテル、アパートを構える「富士松ビレッジ」の建設計画が新たに進んでいます。この再開発の立役者が、本誌発行人で、宇和島屋元CEOでもあるトミオ・モリグチ。日本町の復興とインターナショナル・ディストリクト繁栄にかける思いを明かします。

トミオ・モリグチ■  宇和島屋元CEO。本誌、姉妹紙『北米報知』の現発行人。1936年にタコマに生まれる。1961年にワシントン大学で機械工学の学位を取得後、ボーイングに技術者として入社したが、父親の富士松さんが病に倒れ、1962年に亡くなると、宇和島屋を引き継いだ。家族経営のスーパーマーケット事業をその後の数十年でチェーン展開し、ノースウエストで最も評判の高いブランドとなるまでに成長させた。2007年にCEOを退き、2016年まで会長を務めた後、現在は自身の不動産会社であるフジマツ・コーポレーションの経営に取り組んでいる。コミュニティー・リーダーとしての活動も多岐にわたり、敬老ノースウェスト、ピュージェット・サウンド・エナジー、サンフランシスコ地区連銀、KCTS 9、ワシントン大学、シアトル・カレッジーズ、パシフィック・サイエンス・センターなどでボランティア理事を務めてきた。

取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:宮川未葉 写真:ハントシンガー典子、鎌田賢祐
写真提供:モリグチ・ファミリー、宇和島屋、本人

※本記事は『北米報知』2020年1月10日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

このコミュニティーは、変化しなければなりません

1952年のモリグチ一家。モリグチは後列左から3人目。兄弟姉妹と母の貞子さん(前列左から3人目)、父の富士松さん(同4人目)も写っている

戦争で失われた日本町のルーツを復活させたい

子どもの頃は父親の富士松さんと共に、「(インターナショナル・ディストリクトの)メイン通りをよく散歩していた」と言う。第二次世界大戦後に強制収容所での生活から解放されたモリグチ一家は、戦前に家族で経営してきた宇和島屋を再建しようとしていた。

宇和島屋の旧店舗の前に立つ富士松さん

戦時下、シアトル周辺に住む日系移民とその家族は、ほぼ着の身着のままで強制収容所に送られたため、もともとタコマにあった店を手放さざるを得なかったのだ。モリグチは当時をこう回想する。「私はまだ10歳ほどでした。いつもの散歩中に、父は荒れ果てた店の前に立ち、店主と話し始めました。フィリピン人が経営する小さな食料品店でした。父が片言の英語で『この店は売りに出しているのか』と尋ねると、その店主は『どうぞ!』と鍵を父に投げてよこしたのです」。

宇和島屋の旧店舗。1964年撮影

後にノースウエスト最大規模の食料品店チェーンとなる宇和島屋のシアトルでの歴史は、ここから始まった。その後、宇和島屋は、現在も青い瓦屋根の旧店舗が残るS. Weller St.に移転。シアトルで初めて開店したS. Main St.の店舗跡地は、駐車場としてモリグチが引き継いでいた。昨年末からプロジェクトが始動した複合商業施設の富士松ビレッジは、まさにそのシアトル初店舗があった区画に建設される。5th Ave. S.沿いのS. Jackson St.とS. Main St.の間、インターナショナル・ディストリクト駅の対面に位置する。「メイン通りは昔、日本町として栄えた場所でした」。日本語名を付けることは、父親への敬意だけでなく、この地域を日本町として復興させるのに役立つからだとモリグチは語る。

同じく1952年、兄のケンゾーさん(右)とS. Main St.にあった宇和島屋の旧店舗で働くモリグチ