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ミツル・タカハシさん〜静かな戦士たち 7

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、シアトル市近辺の11万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「NO—NO—BOYS」と、志願兵「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を毎月シリーズでお届けする。

「ブロンズ・スター(勲章)はあんまり意味がないんですよ。戦争に行った人はだいたいもらえるから。これがシルバー・スターで、これがパープル・ハート(名誉戦傷勲章)。ドッグ・タッグ(兵士が首から下げる「犬の鑑札」と同じ様なID札)。これが大統領からの感謝状。そしてこれは除隊証明書」と額に入った数々の記念品を指して笑顔で説明するミツル・タカハシさん。ミネドカ(*)収容所の高校からスイート・ハートだった、奥さんのジューンさんがまとめてくれた額だ。

「どこを怪我したんですか」との質問から戦争の話に入り込むと表情がこわばって来るのが感じられる。「イタリアでドイツ軍から待ち伏せの攻撃を受けた時、肩をやられたけれど、弾は骨も肺も避けたので、ラッキーでした」

タカハシさんはシアトル生まれ。長野県松本出身の父は庭師として生計を立て、ワシントン大学の植物園内、日本庭園の造園にも加わった。1942年、両親、3人の姉妹と共にピュアラップからミネドカの収容所に連行される。収容所内の高校を卒業後44年、442部隊に志願。フロリダ州からミシシッピ州キャンプ・シェルビーでトレーニングを受け、ヨーロッパ戦線に送られた。部隊はL部隊、BAR
マン(ブラウニング・オートマチック・ライフル隊)として前線に立つ。

「戦争の第一印象は、フランスのル・アーブル港に着いた時でした。港町なのにウォーターフロントは何もないんです。コンクリート、レンガの瓦礫だけが半マイルほど、4、5ブロックに渡って続いていました。上陸して奥に入るにつれて建物の残骸がのこっていました」と19歳のタカハシさんはこの時、戦争を実感したと言う。その後に南フランスから、イタリアのピサ付近で待機したのはロスト・バタリオンの戦いの直後だった。「ちょうど感謝祭のころで、がっかりしたな。温かいディナーが食べられると思っていたのに、冷たいサンドイッチとコーヒーだったんですよ」

フローレンス付近の境界線では夜通し行進を続け、3500フィートも丘を登った。「(ワシントン州の)サイ山知っていますか?あの山のように聳え立っているような崖なんです。もう、5、6カ月もどちらも進めずに難攻していました。でも、442部隊は2、3時間で占領してしまいました。ドイツ軍は降参したんですよ」。あまりの速攻に、ドイツ軍も動揺したそうだ。この時の手柄が後に大統領の感謝状を受けることにつながった。

その後ボー谷へと下り、コローナへ向かう途中前述の待ち伏せに合い、タカハシさんは負傷してしまう。180人の部隊も70人から80人に減ってしまった。「18歳か19歳だったから、怖いも何もなかったですよ。逆に30歳か40歳だったら、考えすぎて戦えないでしょう」と、考える隙もなく自分は戦争の中に巻き込まれ、気が付くと死を目の当たりにしていたことに触れる。「医者に、アイスピック(千枚通し)で突き抜けたように、正確に肺と骨を避けて弾が突き抜けたと言われましたよ。ラッキーでしたね」。多量の出血で失神寸前でも3マイルも歩かされた。

そして入院中に終戦を迎えた。「僕たちは座ったまま、何も考えられなかった。何の感覚もなく、ただ茫然としていました。実際に戦場に行っていない兵士たちは歓声を上げていましたが、僕たちは嬉しいとも、騒ぐこともできなかった。ただ座って泣いたことを覚えています。ほっとしたんでしょうね」とタカハシさんは思い出す。涙を流すこと以外に感情を表すことのできないほど、感情の高まった出来事だったと。

退院後の2、3カ月はコモ湖付近でドイツ軍捕虜の監視に当たった。それまでの緊張が解けて、楽しかった時期だ。だが、それも長く続かなかった。「指令が入ったんですよ。今度は日本軍と戦うって。まだ日本の戦争は終わっていなかったから。とても複雑な気持ちでした。僕たちは日系人で、日本人兵士と戦うということは、もしかしたら従兄弟と戦うことになるかもしれないって。でも、トレーニングは始まったんです」

幸い戦場には行かずに、日本も太平洋戦争の終戦を迎えた。5年前、ワシントンDCで日系兵士の記念式典に出席した時はやはり、胸が一杯だったと言う。「シルバー・スターをもらったって、僕には戦争の話をすることが辛いんです。今までもずっとそうだった」

終戦後にタカハシさんは小学校からの中国人のベストフレンドに会いに行きたかったが、会うのをためらった。「JAPって思われていたら、と思うと、会いには行けませんでした。会えて嬉しいと思ってくれるのかな、と不安でした。5、6年たってやっと会いました。もう今はそんな気持ちはありません」。当時はまだ日系人に対する迫害や差別の最盛期で、シアトル・ダウンタウンの東方、マウント・ベーカー地区に家を買うにも、不動産屋が売ってくれなかった時代だ。「悪く思わないでください。日本人に売ったら、私の方が袋叩きにあいます」と不動産屋に言われたこともある。一般のアメリカ人は日系人を受け入れてくれるだろうか、という疑問と、収容所生活から帰り外の生活への適応と気持ちの精算との間で辛かった時期だ。

そんな時も含めて、ずっと現在もタカハシさんに付き添ってくれる夫人、ジューンさんは笑顔を絶やさない。今年の8月、2人でミネドカ収容所跡の巡礼の旅に参加した。同収容所で知り合い結婚したカップル参加者はただ1組。アーチスト、フランク藤井さんのデザインした、ミネドカ収容所のロゴがついた記念品の石を受けた。一世、二世、三世を有刺鉄条線で結び付けているロゴは2人の絆を象徴しているようだ。巡礼の旅を楽しそうに話すタカハシさんも戦争の話になるとまた表情がこわばる。

「僕は442部隊のしたことを心から誇りに思っています。いい仲間、勇敢な兵士たち。442部隊は小さいけれど、一番沢山勲章をもらったんです。442部隊がアメリカ人としても、日本人としての伝統にも恥を塗らずに頑張ったから、日系人がアメリカでも受け入れられて今まできたんです」とタカハシさんは語る。去年日本へ行き、帰りの飛行機で臨席した片腕の老人は、日本軍傷痍軍人だった。「その人は442部隊のことを知っていて、『日本人として恥をかかなくてよかったなぁ』と言われました。褒めてくれたんですよ。とても心がこもっていました。2度と同じ目には逢いたくないけれど、ひとつの経験でした。アメリカの国のために役立てて嬉しかった」と語るタカハシさんの硬い表情は、内に秘める感情を必死にこらえているように受け取れる。タカハシさんの心の傷が癒えるのはいつのことだろう。身体の傷は治っても、戦争が19歳の青年の心に残した陰は、永久に消え去ることはないのかもしれない。

*ミネドカは、当時の一世、二世の発音のかな書き。現在の表記は「ミニドカ」だが、「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

シリーズについて

本記事は、2003年に掲載された記事を転載したものです。当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として、当時の記事に編集を入れずにそのまま転載しています。約1年間に渡って、13回シリーズで掲載していきます。