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米国で生きる日本人の選択 1

米国で生きる日本人の選択 1

米国と日本の間で生きる日本人に、永住権取得や日本への引き揚げなど、人生の選択についてインタビュー。3回シリーズでお届けします。

筆者:福田 恵子

31年間の米国生活から日本に引き揚げた後、永住権を再取得した徳留絹枝さん

子どもの将来考え永住権取得

様々な理由で米国暮らしの後に日本に引き揚げたり、またアメリカに残る選択をしたりする新一世の話を聞くうち、一度日本に引き揚げた後に再びアメリカに戻ってきた人の話も聞きたいと思うようになった。そんな時、2019年の夏にオレンジ・カウンティーのアーバインで開催されたセミナーで、偶然再会した徳留絹枝さんのことを思い出した。徳留さんはユダヤ人と日本人の関係に焦点を当てた著書で知られる活動家(私はジャーナリストだと思っていたが、徳留さん本人は活動家と紹介してほしいと言う)で、再会した時「日本に一度帰っていたんですが、またアメリカに戻ってきました」と話していたのだ。再会から1年以上経ったコロナ禍の中、私はZOOMで徳留さんの帰国の決断、永住権を取得し直して再移住した経緯を伺う機会をもらった。

徳留さんが最初に渡米したのは夫のアメリカ駐在への同行が目的で、1978年のことだった。二人の子どもは当時まだ幼く、土曜の日本語補習校には通っていたが、「子どもたちがこれから日本に帰ると言葉や生活習慣の面で苦労するに違いない」と思い、帰国辞令が出た時にアメリカに残る道も選択できるようにと、徳留さん夫婦は永住権を取得した。その後も徳留さんはホロコーストや旧日本軍米兵捕虜に関する著書に取り組むなど積極的な活動を続け、夫も会社から独立し起業した。そして、子どもたちがアメリカで社会人として巣立った後、転機が訪れた。2009年に夫が癌と分かり、日本での治療を選び、夫婦で帰国することを決めたのだ。

「夫が病気になるまでは老後は日本で暮らそうとか、あまり深く考えたことがありませんでした。しかし、(夫が)初めて病気になり、アメリカのかかりつけのドクターに紹介された専門医の診断を受けた後、保険で最初の段階の治療はカバーされても、次の段階になったら簡単には(カバレッジは)効かなくなるかもしれない、と治療費についての問題が出てきました」。故郷に暮らす夫の兄が「鹿児島で治療を受けたらいい」と熱心に勧めてくれたことが夫婦の背中を押した。

故郷では温かく迎えられた

2009年の5月に帰国し手術を受けた後、7月の長女のアメリカでの結婚式には夫婦で出席することができた。それから5年、徳留さん夫婦は鹿児島の家族や親戚、友人に囲まれて穏やかな時間を過ごした。アメリカで31年も暮らした後の日本、しかも地方の暮らしは不自由ではなかったかと聞くと、徳留さんは「綺麗事で言うのではなく」と前置きした上で次のように続けた。

「私たち夫婦が帰った目的が治療だったので、故郷の人たちは『大変でしょうね』と温かく接してくれましたし、少なくとも人間関係での苦労はなかったですね。受け入れてくれてとても有難いと感謝しました。アメリカのことも聞かれれば話すけれど、自分たちから『アメリカではこうだった』と話さなかったし、話す必要もありませんでした。それに、アメリカから何度も子どもたちを連れて鹿児島と、私の故郷の仙台には帰省して、私たちの家族の顔を見せていました。だから31年ぶりに突然、帰ってきたというわけではなかったんです」。

やがて、徳留さんは夫の父が開設した障害児向け施設で働き始めた。しかし、2014年に再度転機が訪れる。

「夫が逝去したのです。鹿児島の皆さんには未亡人になってからも、ここで暮らせばいい、施設で働き続けてほしいと言っていただきました。でも、私は90を過ぎて仙台で独り暮らしをしていた父と住むことにしたのです。2年後、同じ仙台に住む兄の考えもあり、父は快適な老人施設に入園しました。夫の三周忌を済ませた私も、アメリカのメディケアに入れるようになった2016年夏頃から、結婚してアーバインに住んでいた娘がアメリカに戻ってきたらと強く勧めてくれ、(再渡米を)決心しました」。

永住権は日本に帰国した時に返還していたため、娘のスポンサーで再申請し、1年後の夏に米国に戻ってきた。そして現在の徳留さんは娘と婿、二人の男の子の孫に囲まれて賑やかな生活を送っている。

日本のためになる活動を

8年ぶりのアメリカは徳留さんの目にどのように映ったかを聞いた。「あまり離れていた感じはしませんでした。娘一家と同居なので、いろいろな意味で恵まれていると思います。以前親しくしていたアメリカ人の友人たちとは、日本にいる間もメールでいつもやりとりしていたので、私が帰って来たのを喜んでくれて、すぐ元のような交際に戻り、ブランクを感じることはありませんでした」。

また、執筆活動を行う上でアメリカと日本のどちらがやりやすいかについては次のように答えてくれた。「書きたいテーマによると思います。私の場合は、米国に住んでホロコーストのインタビュー集や旧日本軍の捕虜となった米兵たちの問題を書いていましたが、どちらも日本ではあまり理解されていないテーマでした。そして取材対象者も米国にいましたから(米国に戻ったことは)都合が良かったです。今はエルサレムにある世界有数の障害児施設の創立者の回想録を日本語に訳しています。こういう時代ですので、物を書く仕事はどこに住んでいてもできると思います」。

娘一家と暮らし、ライフワークに取り組む環境としても理想的なアメリカに戻ってきた徳留さんだが、日本を恋しく思うことはないのだろうか。「この先高齢になって身体的に帰れなくなったらそう感じるかなとも思います。しかし、20代半ばからずっと米国暮らしで、子供たちもこちらなので、多分『帰りたい』と思うことはないだろうと思います。むしろ、高齢で米国訪問ができなくなり、子どもや孫たちと会えなくなる方が辛いだろうと想像します。これからも日本との繋がりが途絶えないように、日本で発表できるものを書いたり、ささやかでも日本のためになると思える活動に携わっていきたいと思っています」。

自分がどこに暮らすかよりも、誰と時間を過ごしたいか、何に対してどういう姿勢で取り組むかが重要なのだということを改めて教えてくれた今回の取材だった。

*徳留絹枝さんの運営サイト:「ユダヤ人と日本
*記事は、全米日系人博物館が運営するディスカバー・ニッケイ(discovernikkei.org)に2020年11月20日に掲載された記事を転載したものです。