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トーシ・オカモトの思い出

「みきこ、あんたには悪い評判があるんだよ」と言われて、結局トーシとはインタビューをせずに終わってしまった。今から15年ほど前、北米報知のマネジャーをしていた時のことである。

ある日、トーシが40名ほどの422部隊退役軍人名簿を持って事務所に現れた。自身も退役軍人であるトーシは、第二次世界大戦中に収容されたキャンプから、アメリカの忠誠を誓う証明としてイタリアとフランスの国境の戦地に赴き、戦後帰還した日系兵士たちの生きた声を記録に残して欲しいとのこと。「みんな年取ってしまったから、早くしないと忘れられてしまう」と、インタビューを引き受けてくれた人たちの名簿を渡された。当時、日本では日系人の置かれた立場など知られていなかったため、私は英語でインタビューをし、日本語で記録を残すことを約束。高齢の方から、ひとり2時間に制限し、米陸軍情報部(MIS:Military Inteligent Service)も含めて14人終わったところだった。電話でトーシの番だと告げると、「準備ができていない」と言う。

自分の見たこと経験したことを話すのだから「何の準備?」と聞くと、「あんたがインタビューするとね、みんな死んでいくって、悪い評判が立っているんだよ」との答え。確かにインタビューした方が亡くなってしまう。原稿が掲載される日に訃報を書かなければならなかったこともある。言いたいことを言ってすっきりしたので人生に終止符がついてしまったのだ、と自分に言い聞かせても、悲しい。

トーシは森口富雄さんを始め、他の5人と現在の敬老ノースウェストを創立した人だ。当初は一世コンサーンといって、これから年老いていく一世が、日本語で話が通じ、毎食日本食の出てくる養老施設を造ったららどんなに喜ぶだろうと、親の反対を押し切って軍隊に志願し、収容所に残していった親を思いやっての発想だった。しかし、あまりにアメリカ的過ぎて、親の一世には組み取ってもらえなかった。当時は、子どもは老いた親の世話をするのが常識で、「苦労して育ててくれた親を養老院などに入れるとはとんでもない」という考えだったのである。時代の変化と共に評価が変わり、一世からずいぶん感謝されたと話してくれたトーシの笑顔は忘れられない。

「ワイフがトシで、僕はトーシね」と言う仲の良いふたりに数々の日系イベントで会うたびに、「いつかインタビューさせてくれる?」と聞くと「そのうちね」という答えが続いていた。そして彼自身、その敬老に入り、お見舞いを兼ねて行こうと思っていた矢先だった。

軍隊でどんな辛いことがあったのだろう? トーシのほほ笑んだ時の口の両脇にできる2本のシワ、眼鏡の奥の穏やかな眼は、自分のことを語らない日系二世の苦悩を乗り越えて刻まれていったのかしら? 私もあんなにやさしい眼をしたおばあさんになれるのかしら? その秘訣も兼ねて、もう1度話がしたかった。享年92歳。安らかに眠ってください。合掌。

(天海幹子)

東京都出身。2000年から2004年までジェネラルマネージャー兼編集長。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。