シアトルの俳句結社レニア吟社は2019年、発足から85年を迎える。現在19名の会員は月に1度、四季折々の情景と心情を17文字に込めて持ち寄る。「楽しみながら、苦しみながら、俳句とはもう70年ものお付き合いで離れられません」と会員の高村笙子さん。人を引き付けてやまない俳句だが、ここに至るレニア吟社の道は決して平坦ではなかった。粂井輝子・白百合女子大教授による著作を参考にしながら辿ってみよう(以下、歴史部分は敬称略)。
レニア吟社がシアトルに生まれたのは、1934年。川尻杏雨が提唱し、選者は、医師であり山岳写真家としても知られた小池晩人が務めた。作品発表の場は、杏雨が編集主任であった地元邦字紙『大北日報』。後に杏雨が『北米時事』(『北米報知』の前身)に顧問として移ると、発表の場も北米時事へと替わった。選者の晩人はこの頃、『ホトトギス』に何度も入選を果たしている。ホトトギスは日本で最大かつ最古の俳句結社として俳句を志す者の頂点にあり、入選は大きな名誉だった。1938 年には、『レニア吟社句抄』が発行された。
1941年12月、日米開戦。病床にあった杏雨は開戦と同時にFBI により連行された。シアトル移民局の拘置所からいくつかの抑留所を経て、仮出所という形で1944 年春にアイダホ州のミニドカ収容所へ移されたが、同年秋に死去。その間、主にシアトルの日系人が収容されていたミニドカではミニドカ吟社が結成され、晩人の指導でレニア吟社メンバーを中心に150 名を超える人々が作句に勤しんだ。戦争の形勢が定まり1945年1月に西部沿岸立ち退き令が解除されると同年7 月、収容所での作品を晩人が編集して句集『草堤』が発行された。
1945年8月、晩人によりレニア吟社は復活する。しかし、1947 年に晩人もまた死去。翌年、遺稿集『早蕨』が発行された。こうしてレニア吟社創立時の立役者は姿を消した。
その後のレニア吟社は、安井亜狂が選者として支えた。亜狂は1955年にホトトギス同人となり、盛大な祝賀会がまねきレストランを会場に開かれている。亜狂亡き後、選者はこれも在米のホトトギス同人、左右木韋城。続いて保田白帆子、日本の高木春子、今井千鶴子と替わり、今は互選。毎月の作品発表の場は、本欄だ。吟社はその後、小冊子『季寄せ』(1983年)、レニア句集『しゃくなげ』(1986年)を発行。2014年には『しゃくなげ第二集』発行と共に創立80 周年を祝った。
――現在幹事を務める茂木ひさをさんは、定年退職をきっかけに俳句を始めて10年。レニア吟社ほかホトトギスへの投句、写真と俳句を組み合わせる写真俳句、ネット句会への参加など、俳句を通じた多彩な活動を行う「いろんな面で立派なリーダー」(会員の久間照子さん談)だ。「俳句の魅力は人生の伴侶となり得る文芸だということ」と茂木さんの語るように、レニア吟社は今後もなお多くの人の伴侶として歩み続けることが期待される。
(楠瀬明子)