日本橋界隈 その2
「日本橋」という地名のもとである橋は今もある。初代は江戸に幕府の置かれた1603年にすでに架けられた。中央が高くなっている木の橋だが、安藤広重の浮世絵などに画かれている。現在の橋は1911年にできた石造りで、昔の橋を想像するのは難しいがなかなか見栄えがする。とくに橋柱にある麒麟の像はよく見るに値する彫刻だ。
この立派な石橋は今は哀れにも高速道路に囲まれている。うっかりすると見逃してしまうのだが、1964年の東京オリンピックのための高速道路を日本橋川の真上を走るようにしてしまったからである。以来不評である。高速道路を地下に埋める計画(「日本橋ルネッサンス」の一部だとか)が出ているというが、実現すればすばらしい。川(日本橋川)自体は、東京の他の川と同様、しばらく前に清掃されたし観光交通の手段として注目されている。橋のたもとを発着点とした川ツアー(「橋めぐり」)が実現され、北を流れる神田川も巡る100分の運行。全部で35の橋をくぐる(3490円)。
ここ日本橋界隈はもともとは東京湾の水辺だった。そこに城(江戸城)を建て政治の中心地点とし、周辺に都市作りをしたのだが、そのため埋め立てられた場所なのである。川
縦横に走っていた(今は日本橋川と神田川のみ)し、堀も掘られた。城をとりまく外堀(現在の「外堀通り」)の周囲は将軍のおひざ元だが町人の町であった。「江戸の台所」と言われもしたが、日本橋川の両岸には魚市場があったのだ。1923年の関東大震災のあと築地へ移転したが、「日本魚市場発祥地」の碑がここにある(石柱は椅子にかけた女神像だが竜宮のお姫さまとのこと)。その裏は船着場であった。米をはじめ酒、衣類日常生活用品各種問屋も軒をならべており流通の拠点でもあった。
魚市場跡のすぐ北にある小さな通りは「安針通り」と呼ばれたが、英国人ウィリアム・アダムス(帰化して三浦安針と名乗る)の屋敷があった。イギリス生まれだが、オランダ船に乗ったアダムスは1600年に九州沖に漂着し助けられ家康の外交顧問をつとめた。帆船の作り方や数学や天文学も日本人に教えた人物である。日本橋の屋敷は徳川家康によって与えられたのだが、故国には帰らず日本人を妻にし、晩年は三浦半島の領地に住んだ。米国人 JamesClavelの小説『Shogun』(映画化もされた)の主人公である。
江戸の交通事情についていえば、この日本橋が東海道(京都、大阪などへの街道)の始発点であった。橋を渡りきった南西の際の石碑にそう記してある。全国へ通ずる街道が整理されると、各街道の一里塚はここ日本橋を基点とした。石碑と向かいの場所には処刑者のさらし場があったが、見せしめの意味だろう。それだけ人通りが多かったわけだ。
少し北へ行き「江戸通り」を渡った地を日本橋小伝馬町という。ここには牢屋敷があった。その頃は堀で囲まれていたそうだが今は十思公園。隣に小学校とお寺がある。牢は明治8年に他所へ移転するまで約200年続き、100人ぐらいが常時ここに繋がれていたという。なかでも著名なのが吉田松陰だが、彼は浦賀(横須賀)にやってきた米国船の正体を知ろうと(そしてできればアメリカへ行こうと)小舟こいだが乗船かなわず、国禁を犯したとして捕らえられた人物だ。松陰は明治維新の発端にかかわった人物であり、その後新政府を担うことになる数名の士に大きな影響を与えた長州藩の畏才である。
(田中 幸子)
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