まず京都、それから奈良や鎌倉というのが日本観光の定番ではないだろうか。「古都」を選んでいるわけだが、原爆投下のあった広島をこれに加える向きも、特にアメリカ人のなかには少なくない。銀座や渋谷など、東京の大繁華街はパリやニューヨークに比べどれほど違うのか。「日本へ行くまでもない」、そういう見方からすれば古都の選択は妥当と思われる。最近は買い物を主目的として日本へやってくるアジアからの客が多く、なかにはいわゆるリピーター(二度、三度の訪問)もいるので行く先の選択肢も増えている。東京を目指す人も増えているようだ。
東京を「古都」と思う人はいないだろうが、江戸時代以降400年近い歴史を持つことを考えると立派な古都である。太田道灌がさびれた漁村だった地に砦のようなものを造ったのは15世紀で、軍事面での地の利をそこに見て城(江戸城もしくは千代田城)を築いた家康だが、その後の徳川将軍たちによる政治が250年近く続き、その間、江戸は経済と文化の中心地(大阪と京都と分け合ったにせよ)であり続けた。明治の時代になると東京と名を変えて新しい出発したが、その後も大正、昭和、そして今の平成の時代に到るまで激動の歴史を首都として見守ることになる。だからと言っては語弊があるが、この大都市は探訪すればするほど興味のつきない場所なのである。
「東京」になってからの変わり方のほうがずっと激しいのだが、それ以前の江戸時代には「下町」に活気があった。江戸の大名たちは競って隅田川沿いに邸宅を建て、その東に住んだ町民たちの町には活気があり面白かったのだ。時代とともに人びとの生活様式もとりまく環境も変化するし、それを反映する町のかたちも違ってくるのはあたりまえだが、東京はおおざっぱに言って西に向かって拡張していった。東京の物語を語ることは、経済と文化や生活圏が隅田川沿いとその東の地域(下町)から城の西に広がるいわゆる「山の手」地区へ変わっていった経過、それぞれの興隆のありさまを語ることであろう。
近代都市となった東京の表面は(中味もそうだが)、明治元年以来、少なくとも三度の激変を経験してきた。まず、1923年に起きた関東大震災。地上のほとんどが破壊されたのだが、地震そのものよりも40時間燃え続けた火事のためである。浅草は当時東京一の繁華街だったのだが、その中心部まで火はとどかなかった。でもすぐ東隣の吉原では6000もの遊女たちが命を失った。
大震災のあと、東京はすぐさま立ち直ったが、1923年前の街並とはずいぶんさま変わりがした。それまでの建物の茶色と黒の美しい調和は崩れ、ヴェニスに匹敵するといわれた水の町東京は川と運河をだいぶ失った。地震で破壊された資材がそれらを埋め、道路となったりした。そして人びとはこれを期に西へと移動していく。あたらしい私鉄の線が郊外へ向かって走りはじめ、電車の始発点の駅にはデパートができて人が集まった。
その後東京は再び焼け野原となるが、今度は太平洋戦争の終末期に米軍の落とした焼夷弾による火事。町を建て直すにあたって再び運河と川が、そして今度は東京湾の一部も、埋め立てられた。例えば銀座の数奇屋橋が姿を消したのは大戦後すぐの朝鮮戦争景気で湧く1950年頃だったが、そこに高架の高速道路ができた。その橋はもともと江戸城の外堀の一部だったのだが(地下深くに残った大きな石が発掘されている)、今はバス停の名としてしか残っていない。
そして1964年開催の東京オリンピック。東京の顔はふたたび大く変わる。競技に使われた場所のひとつが代々木競技場だが、このときに米軍から返還された。大戦前は練兵場だったのを米軍が接収、家族の住居地にした。日本人はオフリミットの場所だったのだ。オリンピックのために外国から来る選手や観客の足を念頭に新しい道路ができた。古い道路は道幅が拡張され、両側にたつ建物は平屋からたて長のビルへと大々的に変わった。今の東京には古いものは地上にはほとんど残っていない、と言えるのかもしれない。
オリンピック後も東京の顔は変わっていった。1980年代のバブル経済期の土地価格の高騰にともなって地上げ屋が暗闘し、古いビルや家がずいぶん壊されたりした。こうして古いものはあっさり捨てられ(その方が経済価値があるから)新しい高層ビルが建った。たしかに外観はすばらしくなったが、消えてなくなったものはずいぶん多い。それらは古い写真と人の記憶のなかに収まることになったわけだが、東京についてのエッセイや探訪記が今も書かれ出版され続けている。それは人びとが東京に感ずる一種のノスタルジー、消え去ったものへのオマージュなのかもしれない。
(田中 幸子)
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